読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

大正期の現代思想入門——中沢臨川・生田長江『近代思想十六講』(1915)と桑木厳翼『現代思潮十講』(1913)

東京のインコはメシのネタに飛びつく

 

大正期の「現代思想」の受容

 日本において「現代思想」が人気なのは、今も昔も変わらない。ただ、大正期の方が、西洋の思想史的文脈の整理も進んでおらず、他方で日本語の語彙が貧弱だったこともあり、今の博覧強記でカオティックな「現代思想」ではなく、歴史的展開を踏まえて素朴な問題意識を深掘りしようという苦闘の中で「現代思想」を吟味しているように思える。当時の研究者のやり方は、現代とは違う。現代では、デリダドゥルーズが引用しているからと昔のあまり知られていない思想家について調べてみるとか、マルクスのようなよく知られた思想家の新しい資料を掘り起こして少々突飛と思われる解釈をしてみる、というアプローチが積極的に取られている。これらは「現代思想」研究の新規性と多少なりとも話題性を狙ったものだろう。

 しかし、大正の人々は、西洋の文献で参照されているより過去の文献はおろか、同時代の西洋思想の原典に触れることも簡単ではなかった。もちろん翻訳で触れるなど(誰かが原書を参照して翻訳しなければならないのだから)さらに難しいことだった*1。そこで大正の人たちは、昔からの思想史的文脈を自分なりに(多少は他人のトレースであれ)通史的に整理した上で、最近流行っている思想の意義を考え位置付ける、という基礎的なアプローチを重視している。

大正期もブームだったフランス思想

 戦前の日本というと、20世紀初頭の新カント派や、1920年代後半以降に非常に広がったマルクス主義など、ドイツ思想の影響をイメージする人が多いと思うが、明治期に日本へ影響を与えた文献はほとんどイギリス・アメリカから入ってきた啓蒙思想であり、日露戦争後から1920年代前半ぐらいまでは、フランスの思想がかなり参照されていた。ベルクソン(当時はベルグソン)なんかは1915年ごろにブームになっているし、社会学の祖オーギュスト・コントとか、クロマニョン人命名したカトルファージュとかに至っては、1880年代ごろからちょいちょい言及されている。

中沢臨川生田長江『近代思想十六講』(1915)

 1910年代の初めは、菅野スガとか幸徳秋水とかが虐殺された大逆事件の後で、新聞紙条例などで言論統制も厳しかったのだが、思想の概説書みたいなのが結構出ている。その手の概説書の代表格と僕が思っているのが、1915年に出版された中沢臨川・生田長江『近代思想十六講』である。この本は、評論家で『青鞜』の立ち上げをバックアップするなど若手を育てるのが上手かった生田長江と、東大工学部出身で電鉄会社で技師として働いていた電気工学者なのに、トルストイ論やベルクソン論などをバンバン書いていた中沢臨川、という面白い二人のタッグで近代西洋思想を概説しようというもの。十六講ってことは、いま大学の授業が一コマ十三回ぐらいだから、だいたい同じようなイメージと思ってもらえればよい。半期で一コマ勉強するのと同じぐらいの内容があるというわけだ。

 第一講は概説で、第二講以下で実際に紹介されているのが以下の15人。

 当時の知識人がどういう風に西洋思想史を理解していたのか垣間窺える、なかなか興味深いチョイスになっている。構成も面白い。中世の終わり、近代の始まりとしてダ・ヴィンチを置き、ルネッサンスを紹介。そこから一足飛びに近代の思想の代表者としてルソーが出てきて、そのあとは各論。

 重視されるのは「個人」の問題で、まずニーチェの「超人」の哲学からシュティルナーを中心に個人主義を説明し、これに対置されるものとしてトルストイ人道主義を紹介、その流れでドストエフスキーを論じる。イプセンは「第三帝国」の思想の紹介として出てきて、そのあとはダーウィン進化論、ゾラの自然主義という風に、それまでの人間を中心にした思想に対して、自然に傾倒した思想が現れるという論旨で講じていく。その行き着くところがフローベルのニヒリズムだとして、ここから先がいわば現代思想。ジェームズのプラグマティズム、オイケンの真理論、そしてベルクソンの生命主義へと展開していく。タゴールは東洋思想ということで入っていて、最後はロマン・ロランで読者自身に問題をひきつけさせて終わる。現象学の手前で終わっているとはいえ、19世紀の思想史としては、一つの解釈の仕方として現代でも通用する内容だ。

内容の偏倚が表す時代性

 逆に、19世紀を扱うのにカントやヘーゲルが出てこないというのも面白い。ドイツ観念論的な文脈が完全に捨象されている。生田とか、あるいは多分この本には大杉栄の影響があると思うが、在野の思想家だった彼らにとってはドイツの思想的文脈で注目すべきはニーチェシュティルナーのみで、その系譜についてはあまり意味がなかったのだろう。ダ・ヴィンチから始めながら、途中を全てすっ飛ばしてルソーまで来てしまい、近代社会、近代国家のあり方を論じたマキャベリホッブズ、ロック、モンテスキューなんかが取り上げられてないところから見ると、彼らにとって国家はもう出来上がっちゃったものなんだろうなとも感じる。これは当然、日露戦争後の帝国確立期という時代背景があり、加えて大逆事件幸徳秋水が刑死するという状況によって、市民社会論ないし社会契約論の方面、つまり現在の社会の枠組み自体に関する知の断絶、欠落が起こっているとも考えられる。

 その反動として、個人の自覚、個人の内面についての部分が強く問題化されていくことになる。「自我」の捉え方と、そのあるべき姿を考えるために、読むべき近代西洋の思想家のリスト、と考えれば自然だ。経済学なんて論外で、スミスとか、言及すらされない。経済がまだ思想の範疇外だったということもあるかもしれない。現実の生活とは離れたところで、思想をやっている。まぁこれは逆にいえば、啓蒙されているということでもある。現実の生活の中に止まっていると、「自我」がどうとか考えている暇はない。とにかくおまんまにありつきたい、誰かを犯したい、そういったことに意識が取られてしまう。農家から都会へ移住して賃労働する新中間層が出てきて、そういった人々が過去の習慣から逃れて新たなあり方を模索するときに手がかりになる本、という位置づけだったのかもしれない。

 「自我」の問題は、「人間」がいかにあるべきかということと、「人間」の外部であるものとしての「自然」の捉え方と、「人間」同士を結びつけるものとしての「愛」の様相ということを深掘りしていくことで突き詰めて考えることができる、だいたいそんな論点でこの本はまとめられていて、それ自体が「近代思想」と称した本を出す大正デモクラシー期の知識人たちの問題意識をよく表している。それが読者にウケたのかもしれない、あるいはこの本の読みやすさということもあるかもしれないが、この本は何度か再版されている。初出が1915年なんだけど、その後1930年代に至るまで数年おきに違う版が出てて、文庫にもなってる。今ではほとんど知られてない本だと思うけど、相当売れたんじゃないかな。

 当時の人って、外国の文献を引用するときに、翻訳もあんまり出てないし、こういう概説本で済ましていることが結構多い。いろんな思想家の名前知ってるんだけど、よく聞いてみたらその内容は『近代思想十六講』のパクリじゃん、みたいなことがある。でも後世の読み手はそれがよくわからないから、色々読んでてすごい、みたいな風に思ったりするわけだけど。

ドイツ思想を重視するアカデミックな思想史入門

桑木厳翼『現代思潮十講』(1913)

 中沢臨川生田長江も在野の研究者だが、それより2年前にでた『現代思潮十講』の著者桑木厳翼は、当時京都帝大教授、のち東京帝大教授となるオーソドックスな哲学研究者である。で、『近代思想十六講』ではカントもヘーゲルも出てこないという話を書いたが、次に取り上げる『現代思潮十講』は、きちんとその流れが踏まえられている。

 桑木は、近代の始まりをルネッサンスだけでなく宗教改革にも見て(これはヴィンデルバントに基づく歴史理解だと注釈がしてある)、啓蒙運動の高まりののちにルソーカントロマン主義があってヘーゲルの登場と相成る。そこから先が面白いのだが、ヘーゲルを乗り越えたのはヘルムホルツとみて、自然科学の台頭を哲学史上に置き、その流れにスペンサーヘッケルを置いていく。同時に、フランスにおけるコントの登場を実証主義の起源とし、サン=シモンの影響から三時期論に至るまでと、その思想の限界を多くのページを割いて論じている。その次に、コントに対置される不可知論の思想家としてスペンサーが改めて詳述され、それらとは対照的に客体として説明可能なシステムとしての自然を前提とする自然主義の思想としてヘッケル、オストワルドが紹介され、それを引き継ぐものとして歴史主義を批判するのだが、そこで扱われているのは「ヘーゲルの理想主義」を引き継ぐものとしてのマルクス、ランプレヒト、ヴィンデルバントだ。この批判がなかなかよく整理されて鋭いもので、僕などは人生を3回ぐらいやらないとこの知見を有するまでには至らないだろうと思う。さりげなくライプニッツを引き合いに出して、ショーペンハウアーのように歴史を反復として理解することの問題性を指摘する部分など、ドゥルーズの論点を先取りしているかのようだ。しかし、ドゥルーズのように永劫回帰しか反復しない、というような解釈に陥ることも批判している。

 自然科学の台頭以来の、事実のなかに原理や理論を求める思想に対置されるものとして次に登場するのが、印象主義である。ここではヒュームから始まってマッハの感覚論が詳述され、ウィリアム・ジェームズプラグマティズムへと至る系譜が描かれる。ジェームズのプラグマティズムについては、その背景となるベルクソンの思想にも触れるなど非常に丁寧に説明され、最後に新実在論としてラッセル、ムーア、ペリーの思想が説明される。そして、最後の最後に「現代思潮として要求する」ものとして新しい理想主義というのを打ち出して、オイケンとベルクソンを批判しつつ、フィヒテに基づくヴィンデルバント(今読めるのは『歴史と自然科学』ぐらいか)とリッカートの思想に方向性を見いだすことを指摘して、本の終わりとなる。

当時の最先端の知性の表現、現代の初学者には難解

 この最後の、新カント派の思想は確かに当時の大学の哲学研究者たちにかなり読まれ、関心を集めた思想だった。しかし、なぜいかなる文脈でそこに行き着いたかということは、この本を読んでだいぶよくイメージが湧いた。大正初期にもうここまで説明する本が、一般向けに出されていたことはちょっと驚きで、これまで知らなかった。というのもこの本は全然再刊とか復刊とかされてないんだよね。逆に難しすぎてあまり読まれなかったのかな。中沢・生田の『十六講』の方が、確かに簡単だし出てくる人物も世俗的な人だから読みやすい。単に要約が書いてあるだけだしね。

 でもこっちの本を読みこなせた人は、それだけで当時の知識人のトップラインを走れていたんだろうなという気がする。当時の状況がなんとなくわかってきたけど、大学では思想史的系譜の整理と理解が、それはそれはディープな哲学史理解に基づいてなされていて、他方で在野の、特に社会主義運動などに関心を持ちながらその思想的基盤を求めている知識人は、自我や自己をめぐる問いを引き出す形で思想史を整理している。どちらも結局は新カント派かベルクソンあたりに到達するんだけど、これが大正初期の日本の思想状況の底流にあるんだな。ここにアメリカの影響を掛け合わせれば(それは翻訳などの状況が中心となるが)、見取り図が描けるんだろう。まぁ、大変すぎて自分ではその整理をやる気にはならないが……。

 

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余談:ゾ、ゾー、ゾウ

 ゾという動物がいるのをご存知だろうか。「ゾ」という、一文字の名前の動物である。英語でDzo、チベット語でམཛོ་と表記する。ヤクと牛が交配した動物で、「牛よりも大きく、力強い」とWikipediaに書かれている(wikipedia:en:Dzo)。エベレストの麓の高山地帯が広がるチベットやネパールでは、農耕のために牧畜されているという。農作業ではパワーを発揮し、肉付きがよいので食肉としても重宝され、乳の出もよいという、牛の完全体のような——もちろん人間にとってということだが——動物だ。

 英語名はゾ(Dzo)のほかに、ヤク(Yak)とカウ(Cow)の合成語でヤカウ(Yacow)と呼ぶこともあるらしい。なんだか、『もののけ姫』に出てくるヤックルを連想させるような言葉だ。実際、ヤックルが宮崎駿の書いた物語で最初に出てくるのは『シュナの旅』というチベットを舞台にしたファンタジーで、イメージとしては類縁性があるだろう。

スタジオジブリ もののけ姫 ふんわり ぬいぐるみマスコット ヤックル 11cm

 造形としてはインパラっぽい。 

 話を「ゾ」に戻そう。僕自身、そんな動物がいるということはさっき初めて知った。なんで知ったかというと、ゾという動物を検索して見つけたからなのだが、それを検索した理由は、上で触れた『近代思想十六講』にある。

 この本の中でダーウィンが紹介されていることは説明したが、ちょうどいましがたこの本のダーウィンの『種の起源』が説明されている部分を読んでいたのだ。そこには色々な動植物の例が出てくるが、こんな記述が目についた。

ダアヰンはあらゆる動物中最も蕃殖の遅いのはゾーであるとしたが、若しゾーが平均百歳迄の壽命の中に六匹の子を生むとする時は、一匹のゾーが七百五十年後には一千九百萬匹になる勘定である。(294頁) 

 ゾー、という動物名に戸惑った。ゾウか?と思ったが、その前後には「黒牛」や「蝿」といった生物が漢字で書いてある。ゾウなら「象」と書けばいいはずであるし、せめて「ゾー」ではなくて「ゾウ」と書くだろう。ダーウィンがインドか西インド諸島の珍しい生き物の話を引用している可能性もある。

 そこで、「ゾー 動物」と検索した訳なのだ。そしたら、Wikipediaで「ゾ」という動物が紹介されていることを発見した。しかもオスのゾは不妊であって、繁殖はメスのゾとオスのヤクか牛と行う、と書いてある。確かに繁殖も遅そうだ。だが、あの時代にチベットのゾについてダーウィンが知っていただろうか。当時のヨーロッパ人が武器でもって制圧して人類学や博物学のネタにした地方に、チベットの高地は入っていなかったはずだ。

 疑問が解けないので、原文(On the Origin of Species)に当たってみると、次のように書いてある。

The elephant is reckoned the slowest breeder of all known animals, and I have taken some pains to estimate its probable minimum rate of natural increase; it will be safest to assume that it begins breeding when thirty years old, and goes on breeding till ninety years old, bringing forth six young in the interval, and surviving till one hundred years old; if this be so, after a period of from 740 to 750 years there would be nearly nineteen million elephants alive descended from the first pair. (Chap. 3. Struggle for existence, The Origin of Species, 6th ed., 1872)

 がっつり elephant 、つまり「象」と書いてあった。やはり「象」のことを「ゾー」と書いていたのである。よくみると、「ハヘ」という謎の生き物も出てくるが、これの読みは「はえ」、つまり「蝿」のことである。あるところには漢字で「蝿」と書いているのに、ダーウィンを参照している部分になると「ハヘ」と書いているのだ。なんとわかりにくい。

 おそらく現在でよく参照されるのは岩波の八杉訳だろうが、この訳も基本的には「ハト」や「ハエ」など生物名をカタカナで記載している。ただし、象は「ゾー」ではなくちゃんと「ゾウ」と書いてあった。(八杉の底本は初版なので、上で引いた第6版とはやや文面が異なる。)

 ゾウは既知の動物のなかで、もっとも繁殖がおそいものであると、考えられている。〔……〕ゾウは三〇歳になって子をうみ、九〇歳まで生殖し、この間に三対の子をつくる〔……〕もしこのとおりであるとすれば、五世紀たったのちには、一対のゾウの子孫として一五〇〇万頭のゾウが生じているであろう。(八杉龍三訳『種の起原 上』岩波書店、1990年、90頁)

 実際、象の繁殖は非常に難しいらしい。京都市動物園では象の繁殖のためのプロジェクトをラオスと協力してやっているそうだ(ゾウの繁殖プロジェクト | 京都市動物園)。上野動物園のコラムでも象を交尾させることの難しさが切々と語られている(8/12は「世界ゾウの日」! 動物園のゾウを守るために[その3] | 東京ズーネット)。ナショナルジオグラフィックの記事では、若い象より高齢の象の方が繁殖に積極的だという話もあり、これは「草食化」と揶揄される若者を尻目に、高齢化した日本の男性たちの盛んな様子を想起させられ、人間も象も変わらないのだと微笑ましい気持ちになる(高齢ゾウほど交尾に積極的、50代はフル回転、研究 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト)。

 誤解によって発見した「ゾ」だったが、こういうことで自分の知識が思わぬところで拡張されることは面白い。現代思想研究者なら喜んで、これは「誤配」だ、というところだろうか。いや、そういうことではない。

 まぁなんでもいいのだ。ジャパンにいる僕が、イギリスの著者がインドのゾウについて書いたものを読んで、チベットのヤクとウシに想いを馳せる。パソコンに向かっているだけでユーラシア大陸の端から端まで駆け巡る。まさにあれだ。「そうぞうは、自由だぁ〜!

 

(本記事は2021年2月に書いた複数の記事を編集しました。)

*1:岩波文庫ができたのは昭和に入った1927年だった、といえばこのことがよりイメージしやすいかもしれない。最初に出版されたのは夏目漱石の『こころ』など22点だった

戦争の呼称について考える

北海道がロシアでなく日本なのも、歴史の偶然である

戦争の呼称の変化

 今般のロシアのウクライナ侵攻から始まった戦争について、現在では「ウクライナ戦争」という呼び方が通例のようだ(『ニューズウィーク日本版 3/8号 特集 総力特集ウクライナ戦争』『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』など)。しかし、より俯瞰的な視点から、「ロシア・ウクライナ戦争」という呼び方も徐々に浸透してきている。日本語ではまだWikipediaのページにはなっていないが、英語ではRusso-Ukrainian Warという項目が立ち、この表現がスタンダードになりつつある。

 ロシア・ウクライナ戦争という括りができたことで、2014年のいわゆる「クリミア紛争」からの一連の流れが、この括りに包含されることとなっていくかもしれない。今後歴史の中では、「クリミア紛争」は、今私たちが考えているような、クリミア半島にロシア軍扮する国籍表示のない謎の軍隊がやってきてそこを支配した、というような形ではなく、ロシア・ウクライナ戦争という21世紀のエポックメイキングな出来事の発端として説明されることとなる。

 このように、戦争をめぐる呼称が後から変わっていく例は、枚挙に遑がない。近代日本で言えば、当初満州事変支那事変と呼び習わしていた1930年代の中国侵略戦争は、その後に日中戦争という括りで捉えられ、さらにアジア・太平洋戦争と共に十五年戦争という括りに納められることになった。しかし、当時の日本人に中国と戦争しているという感覚はない。共に西洋に対抗しうる大国を作るために働いているはずなのに、中国政府が協力してくれない、という程度の認識だ。歴史的な視線というのは、同時代に生きる人の視線とは大きく違う。

日清・日露戦争は韓国独立戦争ではないか

 さらに言えば、まだ呼称や括り方が正確でないと思われる戦争もある。日清・日露戦争だ。日清戦争朝鮮半島で始まった戦争で、その目的も李氏朝鮮に対する支配権、より正確に言えば軍事的影響力の行使権をめぐる戦争であった。日清というが、開戦しはじめ戦場となったのは朝鮮半島だ。清で戦場となったのは遼東半島から瀋陽までの地域と台湾だが、清の領土からすれば一部である。加えて言えば、台湾は朝鮮をめぐる戦争とは異なる目的で、異なる相手と戦われており(乙未戦争)、そもそも両者を日清戦争として一括りにできない部分がある。日露戦争も同じで、日露戦争の主戦場が遼東半島日本海という、朝鮮半島の両端で行われたのは(もちろん半島内での交戦や進軍もあった)、朝鮮半島の支配権をめぐる戦いであったからに他ならない。そしてその結果が大韓帝国保護国化であり、その後の植民地化である。

 日清戦争でも清は国が揺らいだというわけではなく、むしろ辛亥革命までその命脈を保っていくことになる。日露戦争では、ロシアは三国干渉で日本から奪った地を清に返さず日本に譲ったというだけで、戦争自体のダメージはあったが、それで国のあり方が大きく変わったというわけではない。日清・日露戦争で大きく変わったのは李氏朝鮮大韓帝国)であって、この二つの戦争によって清の従属国から日本の植民地へと変わったのである。しかも、その間には独立国となる時期もあり、日本とも交戦したのだから、日清・日露戦争を包括して朝鮮戦争と言ってもいいぐらいだと思う。あまり近代韓国史に詳しくないため、具体的なことはわからないが、韓国が清と日本との間で、のちにはロシアと日本との間で、どちらと組むかを悩み続けたのは、あくまで韓国の独立のためであった。日清戦争の開始は東学農民運動が盛り上がっている最中のことであった。だとすれば、この前後の事象も含めて韓国独立戦争と括り、その中の日清戦争日露戦争、と捉え返すこともできる。もちろん、日本の人々はこれに反対するだろう。日本における両戦争の位置付けは、あくまで小国日本が周辺の大国と小規模の戦争を繰り返して帝国化していくプロセスと見做されているからだ。しかし、世界史的に見れば、日本が清やロシアと戦ったことよりも、独立を目指した韓国が東アジア情勢のキャスティングボードを握っていた、という解釈の方がわかりやすい。

韓国独立戦争という括りの意義

 この解釈に立つと、日本の位置付けは、ある意味では肯定的になっていく部分もある。というのも、韓国の次にナショナリズムを高め、独立を志向していくのは中華民国である。そして、その両者を近代化の側から陰に陽に支援したのが日本だ、という構図が世界史的にも位置付けられるからだ。政治経済だけでなく、軍隊に至るまで、日本は20世紀前半を通じてずっと、両国に影響を与え続けていたと言っても過言ではない。孫文を支援し高宗を支援し朝鮮半島中国東北部を工業化したのは日本であった。

 そして、そのために現地の人々を強制労働に駆り出し、土地を奪い、その血と汗の結晶を我がものとしてその地の人々から奪い取ったのも日本であった。これはもちろん歴史の過ちとして反省するべきことだが、歴史の事象としては物事の両面である。独立させて、しかし奪わないという方法は、「金を貸す」という穏健あるいは陰険なアメリカ的方法が実現するまでは選択肢としてなかったのであった。そこには侵略があるのみであった。今、日本が韓国の独立と近代化を支援した、「満洲」を工業化した、などと無前提に言えば大バッシングだが、世界史、あるいは東アジア史の中で、韓国独立戦争があり、辛亥革命があるという時代に、日本が果たした役割は、という枕詞であれば、その見方はむしろ肯定的になっていくだろう。それがいいことか悪いことかは、その受け手の当事者性によって異なる。

 話を戻せば、ロシア・ウクライナ戦争は、まだ歴史になっていない、現在進行形の事態である。ということは、それがさらに大きな、別の括りの中に位置付けられる可能性も残っているということだ。独立するものは、ウクライナという国だけではないかもしれないし、あるいは何かが決定的に損なわれることもあるだろう。歴史研究は興味深いが、歴史を生きることはあまり楽しいことではない。

 

 

「〜的」の用法に悩む

中華的カフェか、中華風カフェか、それとも……

 

 「〜的」という表現は、特に研究者が好んで使う語法だが、これの意味が案外よくわからない。最近中国語を勉強するに至って、中国語の「〜的」の用法も日本語のそれと若干、いや、結構違っていることがわかり、ますます混乱してきている。

「〜ティック」が「〜てき」に

 ある時、なぜscienceの訳語は「科学」なのか、その語源について調べていたのだが、その過程で興味深い記述に行き当たった。近代日本で初めての日本語辞典である『言海』を編んだ大槻文彦が、「〜的」という表現が翻訳の過程で出てきたことを紹介しているのだ。

 大槻曰く、ある席で翻訳家たちが集まって雑談しているときに、ふと誰かが、systemは「組織」と訳せるが、systematicは訳しにくい、ついては最後の「-tic(てぃっく)」の部分が中国の「的(てき)」というのに発音が似ているから、これを訳語にあてて「組織的」としたらいいではないか、という議論を提起したらしい。そこでみんなが面白がってそのようにしたというのだ。この話は1902年の大槻文彦『復軒雑纂』(広文堂書店)に収録されている、「文字の誤用」と題された大槻の講演で出たものである。*1大槻は続けて、こんなのは抱腹ものだが、実際に使われるようになってしまって閉口した、自分は使わない、というようなことを言っている。現在ではこちらの用法がスタンダードになっているのだから言葉というのは面白い。(なお、大槻の『言海』は「読む辞典」と言われるほど面白く、筑摩がちくま学芸文庫にしてくれたので手に取りやすい(字は小さいが)。また、大辞典として『大言海』がある。国語辞典は『広辞苑』のみにあらず。)

 その後、また別のものを書いているときに、「西洋的」と書こうとしてふと思いとどまった。「西洋的」は英語ではWesternであり、Westicではない。それに、「西洋的」というのはいかにも西洋なるものが具体的に捉えられるような感じがしてしまう。ここは「西洋風」とした方がいいか……などと考え込んでしまった。確かに、「ミラノ風ドリア」なら美味しそうだが、「ミラノ的ドリア」だと「ミラノ」的要素がかなり尖ってそうで気後れするし、「反ミラノ的ドリア」も存在しそうだ。「日本風の接し方」だとエキゾチックな感じがするが、「日本的な接し方」だと文化批評という感じがする。日本とは何か、と小一時間問い詰めたくなる。

「〜的」の語源と用法

 そういうことを考え始めるともう書けない。仕方ないので「〜的」についてもう少し調べてみることにした。すると、김유영氏(金曘泳/Kim YuYoung)という方が、前述の田野村論文より先に、非常に詳しくこのことを研究していた。氏は『「-的」ということばの発生と変遷』という題の博士論文を書いており、これをぜひ日本語で出版してほしいと思うが、僕の知りたいその語源については「「-的」の日本語化」(『日本語學硏究』第30輯,韓国日本語学会、2011年)という論文になっている(「AJ - All about Japanese - www.Japanese.or.kr」で公開)。これをみるに、「〜的」は中国語から日本語訳されたもので、もともと現代で言う「〜の(人・モノ)」という用法であった。その意味では現代の中国語とも同じである(〝我的博客“=「私のブログ」というような用法)。それが、「〜な」を意味する先の"-tic"(正確には"-ic")など西洋の形容詞につく接尾辞の訳語として用いられるようになっていったという。

 これは体感としてわかりやすい。「ミラノ風ドリア」の語感が柔らかなのは、「ミラノな感じのドリア」だからだ。しかし、「ミラノ的ドリア」だと、「ミラノのドリア」という感じに近づいていく。しかし、「ミラノのドリア」ではない……この微妙なラインだ。「あいつは自己中心的だ」と言えば、これは中国語の用法に近く、「自己中心的」だけで「自己が中心の人物」ということを意味する。これを、「あいつは自己中心だ」というと助詞が足りなくて不自然だし、「あいつは自己中心"風"だ」とは言えない。「あいつは自己中心"の"奴だ」となら言える。

なぜ「〜的」が使われるのか

 李長波の論文、「近世、近代における「~的」の文体史的考察」『Dynamis : ことばと文化』10巻、2006年を読むと、「〜的」と競合する用法もあったことが知られる。「様」「上」「中」「性」「風」「然」などだ。これらの用法は中国語の「的」には含まれていなかったもので、「的」が日本語になり、欧米諸語の翻訳に使われることによって出てきたものだと大槻は言っている。研究者に「的」と「性」が使われやすいのはこれらを比較するとなんとなくわかる。要は、あるものとの類比を指し示す「的」と、それの内包する性質を指し示す「性」がより具体的なのだ。「様」は類比だが表面上のこと、「然」は仮象に、「風」は擬似に止まる。「上」「中」は空間的位置関係であるため、抽象的な理論にそぐわない。そして、論理を類比と種と類の包含関係から進めていく方法こそ、古代ギリシャ以来の学問の伝統である。

 しかしそうなってくると、「〜的」など今後うっかり使えない。考えてみれば「的」を口語で使うようなことはあまりない気がするが、書くときにはそれなりに使っていると思う。こういうことを踏まえて手元にあるいくつかの書を読むと、現代の良い研究書には「的」がほとんど出てこない。逆に、昔の哲学書に「〜的」が多数出る時の翻訳の苦心というのも伝わってくる。現代では日本語が相当幅広い表現をできるようになってきて、英語などからの直訳風の文章ではなく、日本語なりの言い回しへと置き換えることができるようになったのだろう。これは、ヘレニズム期のローマで、ラテン語ギリシャ哲学の継受により徐々に豊かになっていくことや(ちくま新書『世界哲学史2』の近藤論文を参照のこと)、デカルトがフランス語で『方法序説』を書いたこと、あるいはアダム・スミスが英語で講義したこと(『道徳感情論』)との相似でも考えられて興味深い。日本語もあと数百年すれば、哲学あるいは宗教を担えるぐらい鍛えられた言語になるだろう。それまでに哲学や思想をやる人が残っていれば、の話だが。あるいは中国語と融合して、アジアの大陸哲学がこれから始まるかもしれない。

 

 

*1:僕がこれを知ったのは田野村忠温「「科学」の語史 ——漸次的・段階的変貌と普及の様相——」『大阪大学大学院文学研究科紀要』56、2016年に紹介されている記述からだ。田野村氏はこの分野の代表的な先行研究である広田栄太郎『近代訳語考』(東京堂出版、1969年)からこのエピソードを知ったという。これは内容が内容だけにしばしば参照されており、ここで紹介した金氏のほか、李長波「近世、近代における「~的」の文体史的考察」『Dynamis : ことばと文化』10巻、2006年でもエポックを画する話として考察されている。

伊豆急行線の8000系 〜全編成の写真収集を目指して〜

 (最終更新:2022/7/1)もともとこの記事は、「最近会った東急8000系ファミリー - 読んだ木」の一部として書き始めたものだったが、その後いろいろな編成の情報が集まってきたので、独立した記事としたもの。他に伊豆急関連記事として、伊豆急2100系のキンメ電車と黒船電車について書いた記事「伊豆急2100系 キンメ電車と黒船電車 - 読んだ木」、やってきたばかりの209系の写真「伊豆急下田駅留置中の209系(写真7枚) - 読んだ木」も。

 なお、単に編成表を見たいという人はWikipedia伊豆急8000系のページにあるのでそちらを参照されたい。東急と違って伊豆急は編成数が少なく、またヲチしている人数も多くないので、個人ブログよりWikiの方が早くて正確。Wikipedia嫌いだからリンクは貼らないけど。

 まえがき

 仕事で、伊豆急行線を使うことがあるのだが、ここでは東急8000系ファミリーが現役で走っている。そこで、メモがわりにぼちぼち写真を撮っている。一部、E257系の記録の添え物になっている写真もあるが、今回の話のメインは8000系である。

 伊豆急8000系について詳しいことが知りたいという人は、エゾゼミ電車区というブログ内のページ伊豆急8000系の解説 | エゾゼミ電車区に、その道の人によって東急時代の面影や編成ごと、車両ごとの特徴と写真がわかりやすくまとめられているので、参照されたい。

 僕は素人なので、そういった専門的なことは書かず、単に通勤途中で見かけた車両の写真を並べているだけである。ただ、車両の番号ぐらいは知りたいので、伊豆急の8000系の編成表はwikipediaの当該ページを、東急8000系の情報確認には鉄 この部屋というサイト東急8000系編成表のページや「東急電車形態研究」、果て無き車両図鑑東急電鉄-8000系のデータベース、東急8000系車歴一覧表 - Chokopy's Train-Pageなどを参照している。書いていくうちに、東急時代の写真がふんだんに収められたNegishi-asahidai Photo Laboratory - 根岸旭台写真研究所がんばれ!!東急8000系!!も参照するようになった。こういう個人ページが鉄道の特に系譜や歴史を確認する時に非常に参考になりありがたい。

 この記事を2021年5月の初めにアップして以来、徐々に書き足している。今後209系に取って代わられるという話もあり、実際先日伊豆高原まで209系がやってきたので、8000系の老い先も長くないだろう。せっかくなら全編成の記録を目指して頑張っていきたい。とはいえ、全車両記録しようと思うと15編成45両になってしまうので、まずは各編成から1両ずつ、余裕があれば両先頭車を記録していく、という形にしたい。通勤で使っているだけなので、わざわざ撮りに行ったりはしないから案外集まらないかもしれない。

TA編成(←伊豆急下田 Mc-M'-Tc 熱海→) 

TA-1編成 

伊豆急クモハ8157(元東急デハ8138)

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E257になった踊り子と並ぶクモハ8157

▲2021/4/22撮影

 こちらのTA-1編成、伊豆急クモハ8157は、1973年製の東急デハ8138を先頭車化改造したものだとウィキに書いてあるが、元から先頭車だったクハ8006となんら変わらない面持ちである。大きな違いは上部の通過標識灯(急行灯)がないこと、貫通扉の角が角丸ではないこと、側面のコルゲートが先頭部にはないこと、の三つだ。東急からの転入はこの形式の伊豆急譲渡の最終の時期に当たる2008年。

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▲2022年6月10日撮影

▲2022年10月28日撮影

伊豆急クハ8011

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▲2022年8月5日撮影

 

TA-2編成

伊豆急クモハ8151(元東急デハ8155) 

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▲2021/6/24撮影

 この車両は、 1980年に新製されて東急8035Fに組み込まれた電動車を先頭車化改造したもの。伊豆急8000系の中では非常に新しい車両だが、それゆえ車両更新工事を受けていない。なぜか貫通扉のラインのカラーリングが緑色になっている。

伊豆急クハ8012(元東急クハ8029)

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▲2021/6/24撮影

 1971年新製。クハ→クハで目立った改造がないため、オリジナルの面影をよく留めている。あまり関係ないことだが、1974年には大型補助電源の試作機が搭載されていたらしい(「「鉄道ピクトリアル 東京急行電鉄 1970」にクハ8029の試作SIV写真が掲載」)。

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▲2022年6月10日撮影

 

TA-3編成

伊豆急クモハ8153(元東急デハ8121)

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▲2021/7/8撮影

 1971年製。東横線の8021Fの中間電動車を先頭車化改造したもの。本編成は、ヘッドステッカーに掲げられている通り、伊豆半島ジオパークのプロモーションが車内で行われており、車内広告が全てジオパークに関する景観や施設の紹介となっている。

 以前、フォトコンテストの写真を車内に飾った「フォトトレイン」として運行されていた時の写真も出てきた。

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▲2011年3月28日撮影

 ステンレスが輝いていてやたら綺麗である。おそらく先頭化改造車は皆、最初はこんな風に新車然とした雰囲気を醸していたのだろう。

伊豆急クハ8013(元東急クハ8043)

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▲2021/7/8撮影

 東横線8000系の最終編成8043Fの渋谷方先頭車だった車両で、大井町線から来た伊豆急クモハ8252(元東急クハ8049)と同じ1974年製だ。こちらの方が数日ばかり古く、同じ編成の桜木町方先頭車だったクハ8044からの転入車伊豆急クハ8003と同じ時の出場である。8500系の8601Fに組み込まれていたこともあった(東急8000系ミニコラム)。ただこの記事にある通り、誘導無線は取り付けられず、更新時に貫通扉のボルトが撤去されたため、伊豆急クハ8014(元東急クハ8037)にあるような痕跡はない。

TA-4編成

伊豆急クモハ8154(元東急デハ8122)

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▲2021/7/8撮影

 1971年製。8021Fの中間電動車からの先頭車化改造車。

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▲2021/9/24撮影

 試運転幕をたまたま見かけたのでパシャリ。

伊豆急クハ8014(元東急クハ8037)

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▲2021/7/8撮影

 東急8037Fから来た1973年製の車両。これも一時期8500系の編成8621Fに中間車として組み込まれていた(東急8000系ミニコラム)。貫通扉の枠にボルトがあるのはその時ホロを取り付けた名残で、前面四端にある穴埋めは誘導無線の取付跡だろう。中間車改造車ではないのに前面に足をかけるところがないのは未更新車の特徴で、よく見ると前面下部の左右に飛び出た部分があり、これが足をかけるところになっているようだ。とはいえ、中間車改造車にはこのような足をかける場所は全くないので、伊豆急での管理上は不要なのだろう。

TA-5編成

伊豆急クモハ8155(元東急デハ8126)

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▲2022年4月15日撮影

 伊豆急クモハ8155は、2006年末に転入してきた先頭車改造電動車。種車である東急デハ8126は1971年製。この時まで知らなかったのだが、デハからの改造車には車椅子スペースの改造というこれまた地味な改造項目がある(伊豆急行8000系の車椅子スペース)らしいことを降りてから知り、折角乗車したのに確認しなかったことを悔いる。機会があれば確認してみたい。

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▲2022年8月5日撮影

 

伊豆急クハ8015(元東急クハ8023)

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▲2021/6/10撮影

 TA-5編成の伊豆急クハ8015。伊豆稲取駅での行き違いのときに、2100系R4編成の車内からパシャリ。東横線を走ってた東急8023Fのクハ8023、1971年新製車。2006年末に伊豆急転入。

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▲2022年4月15日撮影
 落ち着いた場所で改めて撮影。「北条義時生誕の地 伊豆半島」というヘッドマークステッカーが貼ってある。

TA-6編成

伊豆急クモハ8156(元東急デハ8132)

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▲2021/7/8撮影

 1972年製。3両編成への組成変更前の最後、2007年に入ってきた車両。

TA-7編成 

伊豆急クモハ8152(元東急デハ8723)

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伊豆急クハ8152

▲2021/6/3撮影

 TA-7編成の伊豆急クモハ8152。東急デハ8723の先頭車改造車である。また、この一両は伊豆急8000系では唯一8500系からの転入車で、製造年も1976年と新しい。東急田園都市線で2003年に保留車となり、2004年、他社譲渡に向けて、試作改造車として運転台設置改造を施す場合のプロトタイプとして改造された車両だった。2006年に伊豆急に入ってくる。(この辺りの動きは、「8500系 260/400の記録」内「8017Fのページ」を参考にした)

 先に、去年TA-7編成が歌舞伎ラッピングだったということに触れたが、この編成は2019年から無塗装編成として、ラッピング無し、スカート黒、というデザインで走っていて、時々そういった復刻ラッピングをやっているようだ。元中間電動車からの改造車なので、急行灯がなく、先頭部には側面のコルゲートがなく、塗装もラッピングもないと、全くののっぺらぼうという感じである。この無塗装自体、8000系初期を模したものといえるが、その頃の新玉川線には馴染みのない僕にとっては、むしろ日比谷線マッコウクジラこと営団3000系が想起される。現在は長野電鉄を走っているが、数年以内に引退するそうだ。そちらは東急8000系よりさらに10歳年上の1960年代に、1961年の日比谷線の部分開業とともに登場した形式である(全線開業は1964年)。日比谷線東京オリンピックに合わせて急いで建設された地下鉄であることが知られているが、1961年に全線開業したこの伊豆急行線西武グループとの競合があり、やはり急ピッチで建設され、相当の死亡者が出たことは絵本にまで書かれている(『ぼくの町に電車がきた』。知る限り唯一の、しかも結構詳しい伊豆急建設に関する絵本である)。時代の雰囲気といったものがあったのだろう。


▲2022/5/20撮影

伊豆急クハ8017(元東急クハ8015)


▲2022年5月20日撮影

 僕がみるときはいっつもTB編成とペアになってて正面から取れない熱海方の先頭車。クハ車をそのまま持ってきたもので無塗装だから、8000系の面影そのままである。あまり詳しくないのだが、東急電車の補助電源装置(消滅した機器) (w0s.jp)によれば、東急8000系の上り向き奇数車には補助電源装置として電動発電機(MG)が乗って(床下に設置されて)いるらしい。更新されていなければ、伊豆急はクハ8011-8017にはMGがぶら下がっているということか。コンプレッサー(CP)なら音でわかるが、MGは耳を澄ましてもどんな音かよくわからない。

 電動発電機というのは、電気の力で電気を発電するという、素人には謎の機械だ。なぜそんなものが必要かというと、直流の電気を交流にしなくてはならないからだ。電圧も変えなければいけない。東急や伊豆急などでは直流1500Vの電流でモーターを回し電車を走らせているが、この「直流」というのは、電子が電線などの伝導体の中を一方向に移動し続けるような電力だ。しかし、電車の室内の空調は、交流三相200Vの電気を使う。「交流」は電子が伝導体の中を行ったり来たりする電力だ。一方向に流れている奴らを、行ったり来たりするようにするためには、どこかで流れてきたものを受け止めてさばいてやらなくてはならない。

 インバーターというものが開発されてからは、そいつらを時間で区切って左のドアから入れて右のドアから出る、次は左のドアから入れて真ん中のドアから出る、右、中、右、中と順々にやることで、交流の電気が作り出せるようになった。しかし、昔は1500Vという大量の電子たちを行ったり来たりさせるようなインバーターはなかった。そこで、次のような方法をとった。まずだーっと流れてきた1500Vの電子たちにモーターを回させる。これは電車と同じだから、簡単だ。次に、その回転する力で発電する。発電するときに、磁石をうまい具合に並べておくことで、電気が流れるタイミングをずらすことができる。ずらしたところから別々に線を引けば、最初は左の線から、次は右の線から、左、右、左、右、という具合に交互に電気が流れて、交流の電気の出来上がりだ。最近(このパラグラフは2022年5月20日に書いている)、三角関数は勉強しなくてもいいという話で盛り上がっているそうだが、三角関数を勉強すればこうしたことは簡単にわかる。なんでも勉強はするに越したことはない。

TA-8編成

伊豆急クモハ8158(元東急デハ8136)

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▲2022年4月15日撮影

 巡り合わせの良くない編成というのがあるもので、このTA-8編成には何度乗っても出会えない。宇佐美の駅でたまたま向かいに止まっているのを見つけて、すれ違いざま根性で記録。双方の列車が発車したタイミングのためブレており、雨でボケており、さらに外が暗いので車内が映り込んでいるが、まずは撮るということが大事だ。東急デハ車からの改造なので、前面スッキリ、急行灯もステップも、何かの加工の後もない。スカートまで青いのはTB-1編成と同じで、TA-1編成を除く2008年導入車の特徴だ。
 種車のデハ8136は、8000系で最後まで東急に残った編成の一つで東横線でさよなら運転をした8017Fに組み込まれていた。来歴としては、1972年に新製されて8035Fに組み込まれ、76年に8620Fヘ、8両化のため1985年に8017Fへ組み込まれた。2022年で新製から半世紀を迎えることになる。

TB編成(←伊豆急下田 Tc-M'-Mc 熱海→) 

TB-1編成

伊豆急クハ8001(元東急クハ8012)

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▲2021/7/29撮影

 伊豆急8000系のトップナンバー、クハ8001。TB-1編成の下田方の先頭車。元東急クハ8012で、1970年新製の8011Fから、このシリーズの譲渡一番乗りで2005年に伊豆急へやってきた。

伊豆急クモハ8257(元東急クハ8017)

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▲2021/5/20撮影

 TB-1編成の伊豆急クモハ8257。先のクハ8001の反対側、熱海方の先頭車である。スカートまで青いのが特徴。東急クハ8017を動力化改造したもので、それゆえパンタグラフシングルアームとなっている。これも先の伊豆急クハ8157と同じく8000系転入の最終年である2008年に来た車だが、製造は1970年と相当のロートルである。これが組み込まれていた8017Fも歌舞伎塗装だったらしい。いまははじっこぐらしのキャラクターのようなものがラッピングされている。

TB-2編成

伊豆急クハ8002(元東急クハ8030)


▲2022年6月10日撮影

 1972年製。2005年1月、最初に伊豆急譲渡された8000系グループのうちの一両。

伊豆急クモハ8251(元東急クハ8035)

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▲2021年7月29日撮影

 東急クハ8035を伊豆急クハ8051に改造し、さらにそれを電動化改造した車両(クハ8051時代の写真が残されたブログ記事を発見→入線直後の伊豆急8000系 - Kereta dan Kucing)。中間車時代の痕跡と未更新の前面が特徴的。


▲2022年6月10日撮影


TB-3編成

伊豆急クモハ8253(元東急クハ8021)

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▲2012年3月7日撮影

 2012は2021のタイポではない。実に2012年の過去写真から引っ張り出し、さらに切り出してきたのがこの一枚だ。伊豆急50周年ステッカーを掲げたTB-3編成熱海方先頭車。元東急8021Fで、同編成のデハ2両も先頭車改造されて現在のTA-3編成、TA-4編成に組み入れられている。よく見ると、右側の窓の下部のステンレスが他の部分に比べて若干だが白っぽいことがわかるかもしれない。これは、2004年の人身事故で破損し、修復した跡だ。昔の東横線は(僕も数年間使っていたが)人身事故が多かったように思う。それも若い女性、高校生などの飛び込みだった。心の痛むことだ。今はそれほどでもない気がするし、ここ伊豆急では人身事故など起こらない。電車に飛び込みたくならないような世の中にしていきたいものだ。

TB-4編成

伊豆急クハ8004(元東急クハ8034)

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▲2021/5/20撮影

 東急クハ8034からの伊豆急クハ8004。1972年新製車。TB-4編成。これも伊豆急クハ8014(元東急クハ8037)と同様8500系に中間車として組み込まれていた(8618F)ことのある車両で、その痕跡が留められている。これも踏み板がないので未更新車か。

伊豆急クモハ8254(元東急クハ8033)

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▲2021/7/8撮影

 これも伊豆急クモハ8257(元東急クハ8017)同様、先頭車の電動化改造車で、シングルアームパンタが特徴的である。かつ、初めて8500系に中間車として組込改造されたもので、元クハ8034や元クハ8037と同じような改造跡がある。そして、踏み板のない未更新車。そうみてくると、心なしか薄汚れているようにも思えるが、これは雨が降っていたためだ。

 同車が、伊豆急50周年ステッカーを掲出していた頃の写真も出てきた。

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▲2011年3月28日撮影

 こちらはまだ綺麗だった。それでも、2006年末の入線から4年以上が経過している時点での写真。

(2022年4月15日追記)
 久々に乗ったらすごく綺麗になっていた。スカートの裾の鉄錆の飛びまでスッキリ。この日も雨だったけど。洗車明けかどうか、というだけのことのようだ。何年経っても錆びずに綺麗なのが、ステンレス車のいいところだと改めて実感。

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▲2022年4月15日撮影

TB-5編成

 伊豆急クハ8005(元東急クハ8024)

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▲2021/5/13撮影

 伊豆急クハ8005、TB-5編成。元は1971年新製の東急クハ8024で、それが組み込まれていた8023Fは歌舞伎色といわれる赤黒の縦帯が前面に入ったデザインだった。伊豆急にやってきた多くの先頭車は、歌舞伎色を経験してきているはずだ。僕も多摩川線の7700系にそのデザインの編成があって見たことがあるが、なかなか力強い印象だった。去年は、伊豆急8000系のTA-7編成も往時を再現した歌舞伎ラッピングだったらしい。

伊豆急クモハ8255(元東急クハ8025)

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伊豆急クモハ8255

▲2021/6/3撮影

 元東急クハ8025の電動改造車、伊豆急クモハ8255。1971年新製。


▲2022年5月20日撮影

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▲2022年8月5日撮影

 開業60周年のステッカーが貼られているとき。いくつかの編成に貼ってあるみたい。

TB-6編成

伊豆急クハ8006(元東急クハ8014)

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E257になった踊り子と並ぶクハ8006

▲2021/4/15撮影

 この伊豆急クハ8006、TB-6編成の下田方先頭車は、もと東急クハ8014、1970年製の車両だ。中間車改造車ではないが、なんとも無骨な前面である。2007年に、東急から転入してきた。 

伊豆急クモハ8256(元東急クハ8031)


▲2022年7月1日撮影

 1972年新製の車。電動化されているが、急行灯などは当時のまま。2007年に伊豆急へ導入。この時は開業60周年ステッカーが掲出されていた。

 

TB-7編成

伊豆急クハ8007(元東急クハ8016)

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▲2021/6/17撮影

 1970年製の車両。TA-7編成と同じくこちらの編成も無塗装無ラッピングとなっている。同編成の下田方先頭車であるクモハ8252は中間電動車の先頭車化改造車だが、こちらは元からクハなので急行灯など元の面影をそのままに残している。また、TA-7編成と異なりスカートの色は伊豆急の白っぽい灰色のままだ。

 ちなみに、過去の写真で無塗装になる前のものがあった。

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▲2017年6月10日撮影

 2100系R-3編成の1661M運用充当(伊豆急2100系 キンメ電車と黒船電車 - 読んだ木)と同所同日、要は2番線の2100系に対し3番線にいた編成を撮った写真である。3番線からの伊豆急下田行きもレアだったのかもしれない。

伊豆急クモハ8252(元東急クハ8049)

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▲2021/6/17撮影

 伊豆急クモハ8252は東急クハ8049の電動化改造車両。元の所属は東急8049F、伊豆急に来た車両の中では唯一の、大井町線用に使われていた編成からの改造譲渡車である。当初、地方私鉄への譲渡改造の試作車として、前に触れた現TA-7編成のクモハ8152(東急8500系デハ8723からの改造車)とペアの二両編成で出場し、伊豆急に導入されていた。本車両は新製も1974年と東急8000系の中では最も新しい部類に属し、1976年製のクモハ8152の次に新しい伊豆急8000系車両である。

 

* * *


おまけ

おまけその1:8000系の車窓からみる伊豆諸島

 8000系の窓に貼ってある、車窓から眺められる伊豆諸島の案内図。片瀬白田から伊豆稲取の間の海岸線を走っている間には、車掌アナウンスでの音声案内もある。

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 晴れていてあまりガスが上がっていなければ、下の写真のように見える。左にある大きな島が伊豆大島、右にちょこんとあるのが利島。これは9時前後に撮った写真で、夏場だとこれより遅い時間には海からの水蒸気で水平線が白く曇り、見えなくなってしまう。冬場はもっとくっきり見える。

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おまけその2:8000系、どの車両に乗ると揺れにくい?

 熱海から伊豆急下田まで鈍行で移動しようと思ったら、電源もあり快適な2100系(リゾート21)に乗りたいところだ。伊豆急のサイトでリゾート21の時刻表を確認してうまく乗れればよいが、時間が合わなければ8000系に乗ることになる。

 8000系も、ボックスシートの椅子はとても快適である。リクライニングこそできないものの、椅子は西武鉄道の特急列車ニューレッドアローに使われていたものをそのまま使っており、ふかふかで前向きに座れる。

 ただ、カーブとポイント通過の多い伊豆急行線内、長く乗るならできれば揺れない車両に乗りたいところだ。揺れにくい車両はズバリ、6両編成時の下り伊豆急下田側から3両目の車両である。

 その理由を説明しよう。3両編成の伊豆急8000系を二つ連結して6両編成で運行する際には、下りの伊豆急下田側にTA編成、上りの伊東・熱海側にTB編成を連結してあることが多い(先頭車を重い電動車として衝突事故時の脱線を防いでいるのだろうか?それとも単に運転しやすいから?あるいはそういう組み方が多いというのも僕の思い込みかもしれない)。いずれにせよその場合、編成は(伊豆急下田)Mc-M'-Tc+Tc-M'-Mc(伊東・熱海)ということになる。つまり、3,4両目が無動力車になるのだ。電車は両先頭車より中間車の方が揺れにくい。さらに、モーターがついていない方が(モーターの振動が伝わらないので)揺れない。3,4両目どちらに乗ってもいいのだが、後ろ3両は伊豆高原で切り離されることがある。伊豆高原より先に行く場合は、前の編成に含まれる3号車に乗るのがよい。そういうわけで、6両編成時の下り伊豆急下田側から3両目の車両をおすすめする次第だ。

 

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車両ネタの記事では他に東急1000系の話→東急池上線 車両いろいろ、1000系いろいろ - 読んだ木東武30000系の話→東武30000系の思い出 - 読んだ木京急2100形・1000形の話→くるりの「赤い電車」の芸の細かさ - 読んだ木もどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

哲学入門書としてはアリストテレス『形而上学』を読むべきであった

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puf(Les Presses universitaires de France)版差異と反復

 

僕にとっての哲学入門書

 ごくごく個人的な回想になるが、僕にとっての最初の哲学入門書はジル・ドゥルーズの『差異と反復』だった。この本は、書かれたのも翻訳されたのも新しいから、ということもあるかもしれない(僕が読んだのは財津理訳の河出文庫のやつである)。二、三人の友人と定期的に輪読する形で、要約を作りながら1年ちょっとかけて読んだのだった。

 フランス現代思想哲学書、と紹介されることもあるが、内容は哲学入門に近いものだと僕は感じていて、確か彼がリセ(フランスの高校)で教えていた哲学の授業の内容をベースにしたのではなかったか。あまりそういった書誌的なところはわからないが。

 内容はこうだ。哲学史をざっと眺めてみると、普遍的に「反復」するものとして信じられるような実存や真理を追求しようという取り組みが色々挫折してきているというところから、ドゥルーズとしてはそれを、外部の何がしかの「強度」が渦巻く世界を感覚が捉えたものから「差異」を作り出す働きとして理解してみたい、とする。そうすると結局、「反復」するものは我々が存在するところとしての世界そのものだけであって、われわれが認識するいかなるものも絶対的に「反復」したりなんかしないんだよ、という話である。

 最初読んでいくと、色即是空的な捉えられ方をされている現実そのものの捉え方の感覚が掴めなくて難解な感じがする上に、フランスの著作でよくある、どこに向かっているんだかわからないまま色々なものを否定していって何も確固たるものが掴めない、という叙述スタイルに戸惑うけれども、話としてはそれほど難しいものではない。色即是空と永劫輪廻といった、仏教では馴染み深い感覚で哲学を捉え返してみた、という程度のものだ。ドゥルーズの主張はだからあまり重要ではなく(少なくとも僕にとっては)、むしろそこで説明されている、プラトン以来の(パルメニデスなども出てくるからさらに遡ることは可能だが)哲学者における実在や真理の捉え方の整理が非常に参考になるのである。どう整理されているかは読めばわかる。

 僕はまさにこういうフランス現代思想にかぶれた人たちが書いたものにかぶれた世代なので、古くは浅田彰の『構造と力』(末尾の図表だけ見れば読んだ気になれる)とかに始まって、佐々木中の『夜戦と永遠』に多大なる感銘を受け、東浩紀の『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』みたいなものも読み、千葉雅也の『動きすぎてはいけない』あたりまでは大真面目にフランス現代思想紹介本を読んでいた。その流れで『差異と反復』もそうだし、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』も読んで(これなんかは訳がわからないなりに楽しかった)果てにはラカンの『エクリ』まで読もうとした(当然読めず、代わりにラカン入門を読んで溜飲を下ろした)。僕にもそういう時代があったのだ。

 

 

哲学入門にはアリストテレス形而上学』がよい

 ただ、最近思うのは、こんな現代思想なんてそれほど、あるいはまったくのところ、重要じゃない、むしろ若いうちに読むべきものではないのではないか、ということである。むしろ、日々自己と自由と性の悩みに苦しむ高校生大学生が読むべき思想書は、プラトンの『饗宴』であり、『パイドロス』であり、『国家』ではないか、と気づいたのだ。性や美に悩む人は饗宴を、知性や他人とのコミュニケーションに悩む人はパイドロス(ファイドロス)を、社会について悩む人は国家を読んだらいい。饗宴は薄いからすぐに読めるし、プラトンの著作はどれも対話篇(古代ギリシャの登場人物が哲学問答している)なので読みやすい。それに岩波文庫だからクオリティは高いのに格安、やはり古典には古典であるだけの理由があるのだ。

 そして、もし哲学入門のようなものを読みたいなら、何を差し置いてもまず、アリストテレスの『形而上学』を読むべきである。もうこれは、本当に声を大にして言いたい。デリダフーコーももちろん、ヘーゲルカントも後だ。まずアリストテレスの『形而上学』である。プラトンアリストテレスソフィストたちも、哲学の系譜として出てくるにあたってはアリストテレスの「哲学史観」とでもいうべきものに色濃く影響されて後世に伝わっている。「古代ギリシャの哲学が〜」とかいう話が出てくる全てのソースのもとを辿れば、必ずアリストテレスの『形而上学』に辿り着く。高校時代に『形而上学』を読んでおけば、大学のどんな人文学系の授業も没问题,明白了である。

 

近代の哲学について考える場合

 そもそも、近代以降の哲学は、先にやるにはちょっと敷居が高い、義務教育を終えたばかりの人間には抽象度が高すぎる。それで相当誤解が生まれている部分があると思う。哲学というのもまず、世界の原理は水なのか、火なのか、風なのか、それとも土なのか、といったところから始めた方がわかりやすい。まさにポケットモンスターの世界だ。そこから哲学は始まるのである。その意味でポケットモンスターはあながち侮れないところがある、あれはエンペドクレスの哲学にも比すべきところがあって、さしずめアナクサゴラスミュウツーと言ったところか。そういうところをプラトンイデア論であの世へ飛ばして、アリストテレスが現実に引き戻してくるのだが、『形而上学』にその流れが書いてある。大体ここまでわかれば哲学の半分はわかったも同然である。残りの半分は精神というか、自己というか、要は自分自身のことについて知る、という問題なのだが、これは哲学には何もわかっていないも同然である。半分しか書かれていない『存在と時間』をありがたがって、世界が人間精神の目から見るとどれほどわからないかを明らかにした本が売れている時点で、要はそういうことなのである。

 で、僕が思うに、こういう哲学を学ぼうと思うのは大変結構だが、最初からこれに取り付くのはちょっと観念的にすぎるのではないか。ある日うちの前にナポレオンが来ましたというぐらいの緊張感の中で取り組むというなら別だが、あー意識についてそういう理解もあるのねーぐらいの感慨しか生まれないのが普通だろう。それなら僕は、むしろヒュームの『人間本性論』とかを読んだ方が、まだこう社会の中に生きる人間の普通のリアリティから想像できるかな、という気がする。ドイツ観念論に行くのはその後でもいいのではないか。

 ヒュームから始めるというのは、ドゥルーズのアイディアでもある(彼は「縮約」という概念に注目する)。ヒュームの背景には「公益」や「徳」について考えるスコットランド啓蒙の系譜があり(この流れを知るには例えば『社会思想の歴史』が参考になる)、その先にいるのが経済学の父と呼ばれるアダム・スミスであるから、近現代、現在の社会へ至るまでの流れもわかりやすいだろう。ヘーゲルをいくら読んでも、ヘーゲルの時代はまだ到来していないから(そして多分到来することはあるまい)、現代までの流れは取り出せない。ちなみにこれはマルクスの思想にも言えることであって、それゆえマルクスの思想をロマン主義とみなす人々もいるほどだが、ここでそれについて言及する余裕はない。とにかくいずれにしても、まずは地に足のついたものから、という趣旨でヒュームを推すのである。

 

社会と哲学

 最後に、社会について哲学的なアプローチを考える場合、例えば、マルクスがどういう哲学史的文脈の上にあるかを知りたい、という場合だが、これはとにかく、そういうことを考えない方がいいというのに尽きる。マルクス哲学史上に位置する人物ではあるが、ヘーゲルをいくら読んでも、そこにマルクスが出てくるわけではない(逆に、プラトンを読めばヘーゲルの所在もわかる)。むしろ廣松渉でも、あるいは入門としては内田義彦の『資本論の世界』を読むのがいい。個人的には、これだけは光文社文庫でいいので『経済学・哲学草稿』とか、あるいは読み物として面白いという点で『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を読んだらいいと思う。

 あるいは、フランスから出てきた社会学の系譜について思想史的に知りたいという場合、これを哲学史的に整理したもので読みやすいものというのは(あるのかもしれないが)僕はまだ知らない。『〈社会的なもの〉の歴史: 社会学の興亡 1848-2000』という分厚い本が先頃東大出版会から出て、ある側面の全体像が見えてきたとは思うが、これでもフランス革命からの系譜や空想社会主義の話は範疇外だし、なら市野川容孝『社会』や、ややトリッキーだが『「社会」の誕生』を読んでみるという手もあるが、どうも包括的な整理という感じではなくて悩ましいというか、自分の中で、ああこういう流れか、としっくりくることがない。まぁここ300年ぐらいの流れというのは直近すぎてまだまだ整理が進んでいないのだ。

 

 

 こうしてみると、僕も一から学び直したいと思う気持ちを強くするが、過ぎてしまった時間は戻らない。まぁポモ(ポスト・モダンを略してこんな呼び方をした時代があった、今となっては「ポスト・モダン」とは?という感じだが)にかぶれてウェイウェイ言ってた時代も、懐かしくいい思い出ではある。いずれにしても、これだけ訳書も揃い、安価な文庫も出ているのだから、読める余裕のあるときにどんどん読んでおかないといけない、ということだけは確かだ。少年老い易く学成り難し、とはよく言ったものである。

 

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Macでモバイルモニターが欲しければiPad一択だと誰か教えて欲しかった

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SidecarでiPadを使った様子

 長いこと、モバイルモニター(モバイルディスプレイ)が欲しいと思っていた。書き物やプレゼンをするときに、メインモニターにはワードやパワポを出し、サブモニターに資料などを映せると、とても便利である。今はそれが出来ないので、いちいち画面を切り替えている。Macなので、キーボードのcontrol + tabですぐに画面を切り替えられ、それほど苦ではないのだが、それでもいちいち作業が途切れるのは面倒であった。そこで、新年度になったらモバイルモニターを買う、というのが、僕の一つのタスクであった。

 

Windowsユーザーのモバイルモニターの選択

 僕はどうもローテクな人間なので、家電量販店へ行く機会があるごとにチラチラとモニター売っているコーナーに立ち寄って見てみたりしていたのだが、まだいい感じのモバイルモニターは出ていないと感じていた。アイ・オー・データのLCD-MF161XPなんかが代表的だが、主力帯のサイズが15.6インチでやや大きく、確かに1kgを下回ってはいるものの、持ち運ぶには重そうだ。いちいちHDMIケーブルやUSB-Cに繋がなければいけないのも面倒である。僕は余り詳しくなかったので、Bluetoothか何かで繋げると思っていたのだが、そういうものは売っていなかった。何より、常にリュックに入れておくほどの丈夫さはなさそうに感じたのである。画面を他人に見せることが重要な職業で、かつ出張なんかに持っていく人が使う用だな、という印象を受けた。

 しかし、いろいろ調べていくうち、13.3インチでそれなりに軽いものであればいいかな、と思う様になった。特に、WINTENのWT-133H2-BSは、重さはたった560gだし、画質もそれなりにいいし、レビューもそれなりに良いので(僕がレビューで重視するのは壊れやすさに関するものである)、非常に有力な候補であった。金額も大体2万円で、手頃である。僕がもしWindowsAndroidユーザーだったら、迷わずこれを購入していた。2万なら最悪壊れて修理できなくてもまた買えばいい。

 ただ、レビューのどこを読んでも、Macに関する記述がない。Macユーザーで、こんなに便利そうなモバイルモニターを使ってレビューした人が、1人もいない、ということだろうか。何でも新しいガジェットが出ると買っているイメージのあるMacユーザーが。

 

Macユーザーはモバイルモニターを買わないが……

 実際にそうなのである。Macユーザーはモバイルモニターなど買わないのであった。何故なら、Slidecarという、iPadをモバイルモニターとして使う機能がMacにはあるからだ。iPadなら軽くて丈夫、モニター以外の用途もたくさんある、というわけだ。

support.apple.com

 

 MacBook Airユーザーである僕もこの機能は知っていたが、三つの理由から検討に入れていなかった。

 第一に、iPadは高機能すぎて管理が面倒だ、ということである。モバイルモニターなら、買ってそのまま放っておいても、いつでも使える。すぐに使える。しかし、iPadを使えば、やれソフトウェア・アップデートだの、やれ充電だアプリだ、Apple IDだなんだと要求され、とにかく面倒である。

 第二に、値段が高い。最新版のiPad(2021、第9世代)が、64GBでも4万円弱。モバイルモニターの大体2倍の価格である。miniって書いてあるやつなら安いのかなと思ったら、こちらは64GBで6万円する。6万円も?画面小さいのに? MacBookみたいにAirとついてるiPadなら安いのかと思ったら、こちらは7万円超え。ただしレビューは総合星5つというあり得ない高さだ。どうなってんねん。古いモデルなら安いのか、と思って調べてみると、2019年の第7世代の32GB、という、今から比べるとかなりロースペックのものが出てきて、最新の64GBが4万だから容量半分で半額、二世代前だからさらに半額の1万ぐらいで買えるのでは?と期待したら5万。5万?なんで高くなるの?? 第6世代の32GBでようやく最新モデルと同水準の価格、第5世代の32GBで3万ぐらいまで落ちてくるが、それでも3万だ。まぁそれだけ便利なんだろう。

 第三に、これが最も大きい理由だが、画面が小さい。iPad Proの大きものでこそ12.9インチと、13インチ近くあるが、iPad Airは10.9インチ、普通のiPadは10.2インチしかない。これならスマホで見るのとあまり変わらないのでは?と漠然と思っていた。普段使っているMacBook Airが13.3インチなので、同じくらいないといけないのではないか。

 

 しかし、モバイルモニターのレビューにこれほどMacユーザーがいないとなると、やはり皆iPadを買っているのだろう。買うとしたらモニターの倍額か。かなり悩んだが、もうこれは仕方ないと腹を括って、購入することにした。モニターは1, 2年使えば壊れてしまうだろう。しかし、iPadはこの価格推移からしても、5年ぐらいは使えそうだ。うちには大昔に秋葉原ソフマップで中古で買った第2世代のiPadが子供のおもちゃにまだ活用されている。それを考えれば、つまり減価償却期間を加味すれば(実際は消耗品だけど)、案外高くない買い物かもしれない。うんぬんかんぬんと自分を納得させ、iPadを買うことにしたのである。

 

ポスト・アイパッディズム・エラ(iPadを買うべきである)

 そして、ポスト・アイパッド時代(iPad購入後)の僕の感想はこうだ。

 

 「何故もっと早く買っておかなかったのか」

 

 まずサイズである。サブモニターであれば、10インチあれば十分だった。サブモニターには表示するものが少ない。一つのpdfや、一つの画像である。それを加工するツールを表示したり、入力のためのいろいろなボタンがあるソフトウェア(ワードのような)を表示することもない。そうすると、そもそもメインのPCのモニターでも、10インチぐらいの領域しか使っていないのである。

 使ってみたら、あまりに便利。いちいちiPadをつけたりしなくても、とりあえずiPadが近くにあれば、MacからワンクリックでiPadに画面を拡張できる。しかも、そのままマウスカーソルがスイー。思った以上に普通にモバイルモニターである。コードを出さなくていい。これは便利すぎる。これまでいちいちMacを取り出して開いて行っていたブラウザ上での雑務(連絡や色々なログ、発注など)もiPadだけで済むようになった。座れない電車内やちょっとした隙間時間でも楽にできる。モバイルモニターの倍の値段するだけはあって、iPad、便利である。

 そして、丈夫さ。ハードケースは付けても全く重くならない。モニターならケースで重くなったり、ケースやケーブルのコストでプラス1万円弱かかるところであった。僕のリュックの中に放り込んでおいても壊れない、というのは大きい。モニターではそうはいかないだろう。それに、PCとの接続はケーブル不要、無線でできる。ケーブルが要らないのでコネクタを酷使して壊れることも、サブモニターを置く場所でいろいろケーブルの取り回しに苦労しなくてもいい。値段が2倍だが、モニターを壊して1回買い替える期間、壊れずにもってくれればいいのである。壊れた時の修理もAppleなら安心だ。

 持ち運びの軽さも、言わずもがなである。本当に軽い。ケースを入れても500gを切るというのはこういうことだ。本と電子辞書を電子化して、それらを持ち歩かないようにすればほとんど重さを増やさずに済みそうだ(ただし、電子辞書には電子辞書の良さがあるので悩ましい)。Wi-FiのみのiPadだが、手元のiPhoneとすぐにテザリングできるのも良い。ネット接続で不満を覚えることもない。こうしてどんどんAppleの術中に嵌ってしまうのだろう。

 

で、どのiPadを買うか、である

 iPadには、普通のiPadと、iPad Airと、iPad Proがある。僕が買ったのはこの、普通のiPadだ。

(2024/02/06追記:この次の世代は0.7インチ画面が大きいらしい→2022 Apple 10.9インチiPad (Wi-Fi, 64GB) - シルバー (第10世代)

 ただ、もし予算が許せば、iPad Airを買いたかった。重さが461gで一番軽く、厚さが6.1mmとかなり薄い(普通のiPadは7.5mmもある、結構違う)。チップの性能が格段に良いiPad Airがあれば、一部の作業をMacBook Airから切り替え、むしろパソコンを持ち歩かなくて良くなる可能性もあった。コネクタもUSB-Cでパソコンと一緒で、Zoomなども簡単にできるし、プロジェクターなどに繋いで講義をするのにも問題ない。そうだとすれば、7万ちょっとという金額も、パソコンよりは安いし、iPhoneが結構高いことを考えれば、むしろありなのでは?という気までしてくる。予算さえ許せば、だ。

 そして、もし広い画面がほしいということになれば、iPad Proを買うことになる。12.9インチあるので、普通にパソコンの画面のサイズだ。まぁ、値段もパソコン並み(13万から)だけど。っていうかこれがあれば、iPhoneMacBookの両方がいらなくなるのではないか。そうすると13万という価格も、それほど高くないように思えてくる(錯誤)。真面目な話、電話はイヤホンApple腕時計があればいいのであって、肩が痛くなるような重いパソコンや、指の形が変わってしまうようなスマートフォンを持ち歩かなくて良くなるのではないか。そうなるとマジでユビキタスみがあるな。

 

 なんだか期せずしていっぱしのパソコン周辺機器レビューみたいなこと書いちゃったな。こういう記事へのAmazonリンクの親和性の高さもすごい。そしてAppleは写真がいちいちかっこいい感じである。こういうところで儲けてるんだろうな。まんまとはまってしまった気もするが、いや、実際に生産性も上がっているし(特に非文字化資料からの転記などが全然早い)、これは有効な投資だったといえるだろう。Macユーザーの皆さんにも是非おすすめしたい。

 皆さんがこの記事のおかげで、僕がモバイルモニターのチョイスで悩んでロスした数時間(時給に直せばiPadを買えるぐらいになったはずだ!)が節約できることを祈る。

 (2024/02/06追記)あと、iPadを立てるスタンドもあった方がよい。これが一番いい。

 

逆に、iPadを持っているならパソコンはMacBook Airを買うべきである

 これは当然の話で、むしろiPadを持っていてMacBookを持っていない人はいないと思うが(それは単に数万単位のお金の無駄なので)、Sidecar機能を使っていない人はそれをMacBookと合わせて使ってほしい。

 特に大学生は、資料の引用文を作ったり、図表を見ながらレポート本文を書いたりすることがあるだろう。これは絶対に画面を分けたほうがいい。頭のリソースが少なくて済む。というのも、画面を切り替えると、その間に、資料の文章や図表の内容を、一瞬記憶しなくてはならない。そして、暗記したことを元に書くことになる。しかし、一度にたくさんは記憶できないし、記憶したままその記憶の断片を元に何かを考えるのは非常に難しい。サブディスプレイ化したiPadに資料や図表を表示し続け、それを見ながらメインのPCで書けば、いちいち断片的に記憶したりする必要はなくなる。考えながら書くことができる。昔の連中は、資料は紙で、入力はパソコンで、と分かれていたからこういう悩みはなかったが、今の連中は画面が一つしかないせいで相当書くスピードや考えるスピードが落ちている(プレ・アイパッド時代の僕のことだ)。モニターが二つあれば万事解決だ。

 MacBookは、Proもあるが、性能が高すぎるし重い。Airで十分だ。金額も手ごろである。

 

既に多くの人が教えてくれてた

 記事のタイトルに「誰か教えて欲しかった」と書いたが(そしてそれは本心なのだが)、既にSidecarの有用性を書いたブログは多くあった。

 持ち運びが楽だという話や、

garretcafe.com

カフェや仕事場以外の部屋などで活用できるという話、

gadget-nyaa.com

そもそも(僕の持っている)M1 MacBook Airでは外付けディスプレイが1つしか繋げない(これは初めて知った。ボードのサイズを小さくするためにポートも減らしているという話は聞いたことがある)から、Slidecarを使うしかないという話、などなど。

 あと、この記事に書いてあるように、

pgary.hatenablog.com

普通の外付けモニターを使うとスリープからの復帰時などに不具合が出たり、設定が初期化されるなどのエラーがあるというレビューが散見される。これも外付けモニターを長いこと買い渋っていた大きな理由である(だが、その代わりにSidecarを勧める上のような記事には、皮肉なことに購入前には行き当たらなかった)。

 色々情報を総合すると、Sidecarは2019年のmacOS Catalinaのリリースに合わせて開始された機能のようで、当初は色々不具合もあったようだが、今は本当になんのストレスもなく使える。

 ただし、上記紹介ブログ記事の中にはいくつか課題点も示されている。5年前のMacだと動作が重いとか、iPadからテザリングしている時にSidecarを同時使用できない、あとはSidecarではMacのカーソルを使う場合、タッチが使えない、などだ。ただ、それは使用上何かネックになることというよりも、今後さらにアップデートしていった場合の課題というところだ。現状で十二分に便利なSidecarの機能は、もっと知られても良い(そしてiPadの売れ行きが伸びるなどして価格が下がり機能が追加されてほしい)。

 

おまけ iPadiPad 2

 せっかくの機会なので、iPadiPad 2を並べて記念撮影。iPad 2とは言っても、その実はiPadの第二世代で、日本では2011年に発売された。僕は2012年ごろに中古で買ったのだと思う。最新のiPadは2021年のモデルなので、ちょうど10年の新旧比較、ということになる。

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ロック画面とホーム画面

 iPad 2には懐かしいアプリがいろいろ入っていてそのままにしている。子供は主にお絵かきアプリを使う。アイコンも古いままだ。

 動きの滑らかさは、案外変わらない。大きく違うのは文字入力のスムーズさである(そしてこれは非常に重要だ)。それから、iPad 2は非常に重い(600g超え)。ケースを入れても500gを切るiPadと比較すると、やはり600gというのは相当の重さがあり、560gのモバイルモニター(ケースを入れれば600g超え)を買わなくてよかったと安堵した瞬間である。

わたしの部屋がない

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子供部屋はある


 自分の部屋がなくなってからどれくらい経つだろう。

 

 今の家に唯一ある個室は、最初から子供部屋の扱いだった。前に住んでた家ではそもそも個室がなかった。その前の家までさかのぼると、まだ子供もいなかったし、自分の部屋があった気がする。あれは何年前だろう、2015年だから7年前のことか。ただ、そこには1年しか住んでいなかったはずだ。そのさらに前には、家がなく転々としていた時期があって、そのより以前の時期、2013年から1年ぐらいは1人でワンルームに住んでいた。ただそれでも、数ヶ月はルームシェアしている時期があった(広めのワンルームだったのだ)。考えてみると、ここ10年で自分の部屋があったのは、全部合わせてせいぜい1年ぐらいしかなかったということか。

 

 部屋があるということはどういうことか。自分の意のままに維持できる空間があるということだろう。自分が置いたものは、次に自分が動かすまでそのままに置いてある。自分がしまったものがなんであるか、他人は全く知り得ない。そういった空間だ。ただ、もっとも重要なことは、その空間が自分自身であること、つまり、自分自身がどういう空間で生きている人間であるか、少なくともそうありたいか、を体現する場であるということだ。部屋の色、部屋の飾り、部屋に置く家具、部屋の散らかりよう、それらのものが他者に見せるためでなく、まさに自分が自分であるために作り上げられる。あるいはこういってもよい、自分の部屋のあり方こそが、その部屋にふさわしい人物としての自分を作り上げるのだ、と。

 逆に、部屋がないというのはどういうことか。自分が身に纏っている衣服の内側にあるもの以外のものが、全て他人に開示されている状態だ。自分が生きる空間は他人が、あるいはせいぜい他人とともに、作り上げた空間であって、自分ひとりのあり方を規定する空間ではないし、自分がそこにありたいというイメージを投影した空間でもない。自分は常に、どこまでいっても、他人が作り出した、あるいは関与したイメージの中に配される客体であり、異邦人である。所有物はあっても他人に開示されており、あるいは他人がそれに自由に触れることができる。自分が置いたものはいつしか別の場所に移され、自分がしまったものを他人が知らないうちに借り出す。これが部屋のない状態である。部屋あるいはいかなる空間も、自分が望む自分のありたい場所とは関係なく構築され、自分は他人の作り出した空間にうまく適合するために常に変化していく。

 

 自分の部屋があるということは、部屋と一体に自分を構築することだと考えれば、逆に、部屋のある人が部屋を出た場合、その一部分は部屋に置いてきているということになる。例えばピンクの部屋に合うようなピンクの服を着て外に出たとしよう。黒いアスファルトと青い空、灰色のビルディングにピンクの服がミスマッチとなるかもしれない。それは、空間も含んで構築された自分というものの一部が、部屋として取り残されているということだ。整頓された部屋できっちりと整えた髪が、繁華街ではビル風で乱され、その雑踏の中で異彩を放つかもしれない。その時その人の一部分は、やはり部屋の鏡の前に少しばかり取り残されているのだ。自分の部屋がある人は、自分の部屋とともに完成する。

 自分の部屋がない人は、その人だけである。その人の在り方は、常に他者との関わりの中で形成され、空間に拡張された完全なその人自身というものは成立しない。なぜなら、他者というものは当然ながら、その人が考えることとは違う考えを持ち、予測不可能な形で動き続けるからである。他者との場所で、自分の置いたものが永遠に動かないように他者の動きを制限することはできない。それが可能ならば、その空間は自分の部屋となっているはずだから。

 

 自分の部屋がない人は、他者の空間への適合を比較的しやすいだろう。自分が自分の外へと拡張していかず、それゆえ他者に何も求めることがないからだ。部屋が散らかっていようが整頓されていようが、それは自分がいかなる人物であるかとは関係がない。なぜならそれは、その空間を構築している他者との関係、あるいはその空間を支配する他者そのものであるからだ。ある他者と散らかった部屋を構築し、他の他者とは整頓された部屋を構築する、ということが、部屋なき者にはあり得る。逆に、自分の部屋を持ち、日々それを丁寧に隅々まで整頓して暮らしているような人は、果たして散らかった部屋を喜んで享受できるだろうか? おそらく無理だろう。それは、整頓された空間が——仮にそれを部屋に置いてきたとしても——自分の一部になってしまっているからだ。異なる他者をどこまで受容できるか。それは、空間の観点からすれば、「わたしの部屋」をどこまで捨てることができるか、にかかっている。その問いは究極的には、服も捨て、言葉も捨て、肉体的な痛みを伴わないすべてのものを捨てるところまでゆきつく。しかし、そこで捨てられない自己があると気づく。肉体的な痛みを伴い、自己自身を捨ててしまったら、異なる他者を受容する私という主体がなくなってしまうので、それはできない。その手前まで、全て捨てることができ、自分が残る。この意味で、子供を持った人々が、特に妊娠出産を経験した人が、その後変わっていくという過程でしばしば起こる、「わたしの部屋」を失うという契機は、比較的大きい事柄のようにも思われる。妊娠を経験していれば、お腹の中ですら「わたしの部屋」ではなくなってしまうわけだ(これはパートナーの男性には経験し得ないことで、しかし理解が求められる部分だ)。自分の部屋をとことん手放して、しかし自分があるという存在論的肯定が、わたしの部屋の非存在ということに見出せる。我部屋なし、故に我あり。自分の部屋がないことこそ、自分が他者に開かれ、世界に開かれ、自己の自己たる所以を悟る道なのだ!

 

 * * *

 

 ところで、今週のお題は「わたしの部屋」だそうだ。自分の部屋が欲しくて広い家に引っ越したいと思っている僕にはタイムリーな話題である。「わたしの部屋」がある人はいいなぁ。