読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

公共図書館と地域史資料

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埼玉県本庄市立図書館リニューアル時の写真(2017年) 郷土資料の石川三四郎蔵書が有名

公共図書館の三つの役割

 昔、ちょっとした必要があって、全国の図書館のリストを作ったことがある。図書館は全国に3千館くらいあって、都道府県と市区は大体自前の図書館を持っている。町村も、半分くらいは図書館を持っていて、あとのところは資料室とか図書室という扱いで、一応公共の本を収める施設があるようだ(詳しい統計は日本図書館協会が出している(日本の図書館統計))。

 公共の図書館には色々な役割があるのだろうが、僕が思うに、重要なのは次の三つの役割だ。第一に、多くの市民が読みたい本を置いておく、という役割。第二に、市民が知りたいことに答えられる本を置いておく、あるいはそれにアプローチするルートを確保するという役割。第三には、地域の史料・資料(史資料と略す)を保管しておくという役割である。

 そして、多くの図書館は第一の役割に重点を置いている。その方が市民の利用が活発になるという、単純な理由がある。多くの市民が読みたい本というのは、しかしそう多くはない。大体はその時に流行っている本であり、10年も経てば誰も読まなくなる。そういうわけで、図書館は新刊を購入し、古い本を捨てて、一定の書庫の広さのまま運営していけることになる。

 そう多くはないと思われるが、第二の役割にも重点を置く図書館が、それなりにある。そこがやることは、専門書を取り揃えることではない。優秀な司書を2人か3人雇い、給料を払うということである。こういう図書館が地域にあると、地域の子どもたちや学びたい人たちにとって非常に良い効果がある。そうした司書がハブとなって、国会図書館から大学図書館から、さまざまなところにある資料へのアクセスのルートが開かれ、図書館の規模とは比較にならない多様な情報にアクセスすることができるようになる。また、専門書などを取り揃える際にも、良書を見極めることで冊数を抑えつつ重要な情報を網羅するような効率的な選書ができるようになる。

 ただ、司書を維持するにはお金がかかる。人件費は、運営費で減らしやすいものの代表格であって、図書館に振り向けられる予算が減るとまず減らされるのは人件費、具体的には優秀な司書さんがクビになって素人の契約社員か市役所の暇な職員に置き換えられる、ということだ。司書の給料が上がらなければ司書の質も上がらない。それゆえ、司書の質には大きな地域差があるとも思われる。ただ、いないよりはいた方が良い。

 

公共図書館の理想像を描いたものとして図書館関係者に知られる古典

地方自治体の公共図書館における地域史資料の保管

 そして、これは本当に希少であるが、第三の地域史資料の保管にしっかりと取り組んでいる図書館もある。こうした図書館は地域の宝である。図書館が、単に上から、中央から降ってくる情報を吸収するための施設ではなく、その場から新たな情報を生み出していくための中心となるのだからだ。

 こうした図書館のある地域の出身の人物についての研究は進むだろうし、地域の歴史や文化を記録という形で残し、再興したり拡張したりすることもできる。行政資料がちゃんと揃えられているだけでも、地元議員が政策検討したり、都道府県や国に訴えるときのよい根拠となるだろう。反対に、残されていないものは、ないのと一緒である。地域の史資料が残されていなければ、その地域独自の文化や資源を、どんなに他人に訴えようとも理解されることはなく、単に蹂躙されるか収奪されるかになる。証拠が残されていなければ、起源を僭称することも容易だからだ。近年は文学館がある地域もあり、そうしたところに散逸しそうな資料を集めて効率的に管理しているところもある。その程度の集権化は仕方ないかもしれないが、出来るだけ小さい地域単位で資料を集めて管理し、それを開かれた図書館網、情報網の中で相互に参照できる、としたほうが本当はよい。資料がもつ文脈というものがあり、資料は次の資料を呼び込む。その資料が違うところへ行けば、その資料の引力はなくなり、地域の資料が集まらなくなる、あるいは生まれなくなる、ということがある。

 都道府県立図書館でも相当の違いがあり、特に都立中央図書館は別格だが、その地域の学知に対する姿勢が図書館に現れている。熊本県立のように文学館と密接に連携して地域資料の保管に取り組んでいるところ、埼玉県立のように地元の諸団体の発行物をつぶさに集めているところ、北海道立のようにそこでしか行うことができないであろう特定の領域に関する資料の収集をおこなっているところなどがある。県内図書館の横断検索機能を打ち出して、他館との連携でサービスの向上に努めているところも多い。逆に、色々な団体の力が強すぎて県立図書館にはいまいち資料が集まってこない茨城県立、そもそも資料を集めたり保管する機能が破綻してしまっている兵庫県立など、地域史資料が集まらない都道府県立図書館にも個々の事情がある。

 市区町村の図書館となると、だいぶばらつきがある。文学者が住み着いていた地域の図書館は、その文学者の関連資料を保管することが観光資源にもなることから、小さい市町村でもそれを積極的に管理していくことになる。前にも書いた通り、過疎地域の町村などは、資料室という形でようやく残している程度のところも少なくなく、そうした地域の郷土資料の保存というのは現実には不可能な状態になっているといえるだろう。北海道の各市町村の炭鉱関係資料など、本当に勿体無いことだ。

 逆に東京23区のように、大学や民間施設が充実しており、また財政も豊かであることから博物館や資料館を持ち、地域資料を図書館以外のさまざまな施設で分有しているところがある。大阪市は全区に図書館を配しており、しかもそのそれぞれに郷土資料を有しており、さらにはデジタルライブラリーまであるという充実度だ。大阪府立図書館の蔵書数も膨大であることを考えれば、さすが東京に次ぐ都市だけはあると言ったところか。

 そのような大都市と過疎地との間にある、都道府県庁所在地やそれに近接する政令指定都市レベルの市の図書館のあり方は、それぞれに工夫がある。たとえば県立図書館が機能不全に陥っているというニュースがしばしば流れてくる兵庫県では、逆に神戸市や明石市が積極的な図書館政策を進めている。県立図書館の機能不全はそれに安住しているといえるだろう。埼玉県はうまくやっていて、県庁所在地のさいたま市にはさいたま市立図書館が、それに次ぐ規模の都市である熊谷と久喜に県立図書館があり、さらにそれに次ぐ規模の周縁的な都市である富士見市本庄市は、市立図書館に独自の充実した郷土資料の文庫を有していて、それぞれうまく機能分担しているように見える。*1

 

▲最近話題になったこの本は、福井県立図書館のサイトから始まった

 

横浜市立図書館と神奈川県立図書館

 個人的には、そういった政令指定都市レベルの市立図書館での良い例は、横浜市立図書館だと思う。中央図書館では、閉架にかなり充実した資料を抱え込んでいて、他の市立図書館では考えられないような充実度である。スタッフがすぐにそれらを利用者の元に持ってこられるよう、人員体制も手厚く、アーカイブもしっかりしている。地域資料を単に溜め込んでいるのではない。中央図書館は横浜市営地下鉄京浜急行線、根岸線の駅に近接する場所にあり、市内からのアクセスも非常に良い(都内からも良い)。

 ただこういうことを言うと、横浜市に住む人からは、何を言っているんだと文句が出るだろう。と言うのも、横浜市の図書館は人口の割に館数が少なく、生活圏に歩いて気軽に行ける図書館が少ないことで悪名高く、政令指定都市の中で最も人口あたり図書館数、蔵書数が少ない市として知られているからである。おそらく蔵書している図書の種類は多い。しかし、館数が少ないので本の被りが少ない、それゆえに蔵書数も少なく出ているのだろう。地区センターに図書室があってそれが小規模な図書館(各図書室それぞれに蔵書が1万冊程度ある、これは小中学校の図書室並み)として機能しているのだが、なんとそれが市立図書館と連動していない。今のような二つに分かれているOPACを統合し、地区センターの図書室を図書館分館と改称するだけで、横浜市の図書館少ない問題は解消するだろう。金はかかるがやる価値のある仕事だ。給食センターを作るよりは簡単だと思う(給食センターは作るべきだ)。

 残念なのは、ここも兵庫県に似たところがあり、神奈川県立図書館があまり機能していない。最近リニューアルしたので多少良くなっているのかもしれないが、県立図書館が市立中央図書館から徒歩数分のところにあって競合しているのは不可思議である。しかも県立図書館の分館は川崎だ。川崎市も市立図書館を全ての区に配してさらに分館を置く充実度である。何を考えているのかと問いたくなる。神奈川県内には西は箱根、東は横須賀、その間には小田原、平塚、鎌倉など多くの重要な地域がある。中央図書館は平塚、分館を小田原、横須賀に置くなどすれば、相当の地域資料が集められ、それらの価値は比類なきものになるはずだ。

 

▲「ものづくり情報ライブラリー」と位置付けられている神奈川県立川崎図書館は社史研究で知られる

地域史資料の研究

 地域史資料は、数十年前に郷土史ブームのようなものがあった時に、それなりに集められるようになり、置く場所がないから図書館に集められたというところが多い。他に、市役所の文化財課だとか教育委員会だとかに押し付けられ、倉庫に眠っているというところもある。こうした資料は、「郷土史」という言葉からもわかるように、都道府県というより市区町村単位で集められ、保管されている。都道府県が保有している場合は、それなりに情報公開やその共有も進むわけだが、誰も知らない田舎の図書館に眠っている資料というのは、それがなんなのか本当に誰もわからない、保管している当人たちですらわからないということも少なくない。エクセルで目録を公開しているような素晴らしい自治体もあるが、アーカイブがきちんとされてないところもある。今後自治体の予算が減らされたり、また合併のようなことがあったりすれば、冒頭に書いた通り、地域史資料の保管という優先度の低い役割を放棄する図書館はさらに増えるだろう。そして、5年程度しか読まれないような流行本を買っては捨て買っては捨て、とやる図書館が増えるに違いない。

 こうした資料を研究する人は多くないのだが、しかしこうした資料をよく分析していかないと、政治や経済の歴史や実相は、実はわからないものである。よく、政策は霞ヶ関で決まっている、あるいは永田町で議論されていると言われるが、各地域での史資料とその分析の積み重ねがなければ、政策などは空中戦になるしかない。それで意味不明な海外の理論を適当に国内に当てはめるようなことも起きるわけである。逆に、独自の政策は都道府県や市区町村から生まれることも多い。それは、地域の蓄積が背景にあること言うまでもない。水戸での学問が、あるいは山口の小さい塾が、あるいは高知の結社が、日本の歴史を動かしてきた。決して全てが江戸や東京で起きているわけではなく、むしろ各地域での学知の、議論の積み重ねこそ歴史を動かす原動力であることいくら強調してもし足りない。そして、現在そのような学知や議論を担うのは、実は誰も目を向けないような、地方自治体の図書館の郷土資料コーナーであり、莫大な予算を投じて海外の最新理論の輸入に余念のない大学の研究室ではないのではないか、というのが、僕の考えである。

 公共図書館は、単に読まれる本を集めるだけでなく、また各図書館とのネットワーク化を進めるだけでなく、その図書館しか集められない地域資料を集めて保管し、それを活用できる形にアーカイブするという、そこの機能をもっと重視し、強化して欲しいものである。

 

▲民衆史研究で知られる安丸良夫の本が文庫になったが、これなども重要な示唆を与えてくれる

*1:2022/5/17追記:埼玉県の素晴らしさを讃えていたところ、機能集約して体制を変える方針を検討するというニュースが流れてきた。「2カ所の県立図書館、集約も 埼玉県教委検討 - 産経ニュース (sankei.com)」やはり充実した体制は維持できず、効率化の名の下に中央集中が進んでしまうのだろう。横浜市と競合している神奈川県のように、いま県庁のあるさいたま市浦和の、市立中央図書館の近くに集約移転するようなことになれば本当に残念なことだ。

1年かかって総アクセス数5000到達

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意外と手元になかった東急5000系の写真

 2021年2月15日にこのブログを開設してから、1年少しが過ぎた。先頃、はてなブログアクセス解析ページに表示される総アクセス数が、5000に到達した。始めたばかりでも月5000アクセスくらいいくブログはたくさんあるが、むしろここのような、趣味としてやっているブログ(趣味のブログではなく)で1年かけて5000アクセスに行きました、ということが書いてあるブログがあってもいいだろう。一応の区切りなので、またアクセスの内容を整理分析しておこう。

5000アクセスに到達する方法

アクセス数増加のセオリー

 ここ半年はあまり更新の頻度は高くないが、開設して3ヶ月で1000アクセス(はてなブログ通算1000アクセス到達 - 読んだ木)、半年程度で2000アクセスに到達し(はてなブログ2000アクセス到達 - 読んだ木)、さらに半年強で5000アクセスに到達したと考えると、ありがたいことにこの間も3ヶ月で1000アクセス、月300アクセス程度のペースを維持しているようだ。

 相当前の時代を除き、近年運用していた他のブログではあまりこのような巡航速度を維持するようなことはなかったので、はてなブログであることと、100記事を超えたこと(はてなブログ100記事到達とその後 - 読んだ木)によって、一定程度のアクセスが維持されているということなのだろう。100記事を超えてからはあまり記事を更新しておらず、現段階でもまだ記事数は132記事にとどまっている。

 ここから考えると、ブログ継続の秘訣は、まず100記事を目指すこと、というブログ界のセオリー(そんなものがあるかどうかわからないが)は正しかった。頑張って100記事書く、そうすれば1記事あたり平均して毎月3アクセス、100記事で合計月300アクセスを稼げる、あとは2ヶ月で600、3ヶ月で900……とアクセスが伸びていくのを待つだけだ。

月1万アクセスを実現する方法

 ただ、この方法では1000記事書いても月3000アクセスなので、SEOやアクセスアップのセオリーには使えない。多分この方法で行けるのは月1000アクセスくらいまでで、それより高みを目指すためには、テーマを絞る、記事の質を高める、検索対策のワーディングをする、(マーケティング施策として)リンクを広げる、などの他の対策が必要だろう(このブログはそんなことはするつもりはないが)。テーマを絞って記事の質を高めれば、アクセスはすぐ10倍くらいにはなる。つまりそれは、このブログでアクセスの多い記事(書評や鉄道の情報など)だけを集めたブログ、のようなものになる。そうすると100記事で月3000アクセス程度、300記事書けば月1万アクセスに到達する。アフィリエイトを副業にする、という場合にはこの辺りが目標になるのだろう。僕のブログは逆に、アクセスをまともに稼いでくれる記事は100記事中10記事くらいしかない。良質な記事だけをこの30倍、300記事書いてアフィリエイトを副業にするほどのモチベーションは僕にはない。ただ、月1万アクセスというのは、運や能力というよりも、地道な作業をコツコツ1年くらいかければ誰でも到達できるものだ、ということは言い添えておきたい。

当ブログへの流入経路と、評価される記事のタイプ

 その経路をいくつかの観点から分析してみよう。大まかな流入元の割合はGoogleアナリティクスでわかる。検索が4割、SNSが3割、どっかのリンクから飛んでくるのが2割弱、その他1割である。

検索

 まず検索についてみてみよう。Googleのサーチコンソールを見ると、Google検索から大体月100アクセス程度の流入がある。あまり単純比較はできないが、この数字をもとにざっくり計算してみる。はてな計測で月300アクセスなので、検索が4割(≒120アクセス)で、Google検索からの流入が100アクセスだとすると、検索流入のほとんどがGoogleということになるだろう。実際、はてなブログアクセス解析の「アクセス元サイト」で検索エンジンの内訳を見るとGoogleがほとんどだ。検索の4割のうち、3割分がGoogleで、1割分がYahoo!やBingであろうという推測が立つ。

 検索クエリを分析すると、ブックレビュー(書評)と鉄道ネタなので、この二つの分野のネットメディアやブログが多いのも頷ける。日常のことを書いた記事や子育てについて書いた記事などは、全く検索流入に寄与しない。世の中で流行っているものを取り上げるのが重要である。

→検索で評価されている記事

SNS

 次に、SNSについてみる。全体の3割なので、月100アクセス弱ぐらいがSNS経由だ。これの内訳は、はてなブログアクセス解析の「アクセス元サイト」が一目瞭然だ。大体がTwitter、少しFacebook、という感じ。記事を投稿すると同時にTwitterにもシェアするようにしているが、これはやはり効果が大きい。Google検索の流入と同じくらいの効果がある。ただ、アクセスされるのは、記事の質に関係なく最新の記事だ。SNSから古い記事がアクセスされるということは基本的にはない。どんな内容の記事でも更新しさえすればアクセスされ、その内容の質に関わらず一過性で流れていく、というのがSNSからのアクセスの特徴である。

SNSで評価されている記事

リファラ

 最後に、どっかのサイトから飛んでくる、つまりリファラルだ。これはほとんどがはてな系のサービスである。はてなブログはてなブログのタグ、はてなキーワードはてなダイアリー、など。もしはてなブックマークなどで拾われるようになれば、もっとこれらのアクセスが増えるのだろう。これらは昔の「トラックバック」を代替するようなサービスと僕は感じている。スパムまみれになったトラックバック機能を置き換え、安全に使えるような工夫がされているという点は、はてなのサービスの魅力の一つだ(インターネット年少世代 - 読んだ木)。その効果が、アクセス数にも目に見えて反映されているということだろう。そして、アクセスされるのがニッチな記事で、こんなネタに反応して読む人がいるんだ、という喜びがあるのも、古き良きブログの文化という感じがする。

リファラルで評価されている記事

最後に一言

 まぁこうやってアクセスがあると今後もブログを続けていこうという張り合いになるので頑張っていきたい。いつか機会があれば、子育てや仕事の片手間に趣味でブログをやっている人たちと色々情報交換などもしてみたいものである。

 

 

週刊はてなブログの存在を知る

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桜が満開になった

 僕がはてなブログでブログを書き始めたのには、色々なわけがある。具体的には「なぜnoteではなくはてななのか - 読んだ木」で書いたが、要は「はてなは、古き良きブログでの繋がりという思想を大切にしているサービスだと思う」からだ。そして実際、10人以上の方々にブログの読者になっていただいているし(「はてなブログ読者10人到達 - 読んだ木」)、月200くらいのユニークユーザのアクセスがあり、ブログを始めて1年以上経って、ユニークユーザー数は2000程度、はてなブログアクセス数ももうすぐ5000に到達するということで、僕の期待した通りのつながりは——まだ数量的な面にとどまっているものの——あったと言えるだろう。

 

 ところで、WHB(週刊はてなブログ)というのがあるらしい。

blog.hatenablog.com

 はてなには、誰か他のはてなブロガーが自分のブログや自分のユーザー名に言及すると通知してくれるシステムがあるのだが、そこにはてなブログid:hatenablog)からIDコールと言及がありました、という通知が来た。それで見てみたら、「週刊はてなブログ」の上記の記事に、以下の僕の三体のレビュー記事が引用されていた。

yondaki.hatenadiary.jp

 他にも『三体』をレビューしている人が何人か引用されている。どういう経路で目に入ったのかはわからないが、このレビューが多くの人の『三体』解釈に寄与すれば幸いだ。そして気になった人は、ぜひ文革以降の近現代中国を捉える史的観点から、あの本と現在の習近平体制を考えてみてほしい。今後しばらく、あのような本は中国から出なくなるだろうから……

 

 余談だが、面白いと思ったのは、このIDコールという仕組みである。僕はこの機能を週刊はてなブログで見て初めて知ったのだが、IDの横にプロフィール画像のアイコンがつくというところが特にいい。僕がブログとは別に、プロフィールのアイコンにしているオムライスの上にケチャップで描かれた間の抜けた顔が、文中にポロッと出てくる。このアイコンは、ぱっと見はファビコンであるから、16x16pxに縮小されているのだろうかと思う。

 記事を引用すると通知されることは、以前他の記事でも、アクセスも伸ばせるしブロガー同士の交流も促せるし、というはてなのいい仕組みだなぁ、というようなことを書いたが(ブログ記事リライトの三つの要点+はてなブログのチート技 - 読んだ木)、このIDコールという仕組みは、さらにブロガー同士の人格的な、というかアカウント格的な?交流が生まれてくれば、きっとさらに活かしていける機能なのだろう。

 

 せっかくIDコールの仕組みを知ったので、それを使ってみる意味でもちょっと『三体』の記事に補足しておきたいのだが、そこで僕に『三体』第三巻を読むように促したと書いた知人は、同じはてなブロガーで「tebikae」のブログ主 id:katanoina である。

tebikae.hatenablog.com

 K氏の方が色々な映画のレビューや本のレビューをやっているので、はてなブログ運営の皆様方におかれましてはぜひ氏のブログ記事もご注目いただきますよう。いや、それを氏が望んでいるかどうかはわかりませんが……

 

 はてなのサービスは、僕のような人間とは相性が良いらしく、2018年にはいわゆる増田と呼ばれるはてな匿名ダイアリーでも何かのジャンルでホッテントリ(ホットエントリー)に入れてもらったことがある。久しぶりに見に行ったら、200ユーザー以上がブックマークしていた。このブログではブックマークなんて全然つかないけどな……匿名だと言いたいことを自由に書けるので(誹謗中傷はしてないが)、その分受けるということなのかもしれない。いずれにしても、ブログを続けていくと色々と人目に触れることもあるので、もう少し読んで損しないような記事を増やしていきたいところである。

 

 

モデルナ3回目の副反応メモ

もう1ヶ月ぐらい前だが、3回目のワクチン接種した。その時のメモが下書きに残っていて、削除するのもなんだが推敲するのも面倒なので、メモ書きのまま公開。

 

1回目も2回目も3回目もモデルナ打った。

2回目の時に記事を書いたので、3回目も書く。メモ書き程度。

yondaki.hatenadiary.jp

 

忙しくて打つタイミングがなかったので、たまたま予定が空いた日の前日の夜に、翌日の9時台の予約。モデルナならガラガラなので前日の夜でも翌日の朝から取れる。

この週の終わり頃から、予約なしでも打てるようになった。

 

*0時間経過

1日目 10時ごろうった

 

*12時間経過

22時ごろ、つまりその日の夜も無事

もはや副反応ないのでは?と期待した。。。

 

*18時間経過

2日目早朝、だから18時間ぐらい経った頃から調子わるくなる

起きて測ると37.5度

 

*24時間経過

2日目日中、ずっと37.5-38.0度の間を行ったり来たり。つらい

 

*30時間経過

2日目16時過ぎ、夕方ごろは38度に張り付いてる感じ。この頃が一番辛かった。

 

*36時間経過

2日目の夜22時、打ってから36時間後ぐらいから、ちょっと楽に。

 

*42時間経過

3日目の朝もちょっと辛かった

 

*48時間経過

丸三日経過した、3日目の10時ごろには完全回復。スッキリ

 

 

まとめ。

打ってから12時間は無事。18時間ごろから体調悪化し、24〜30時間経過したあたりが辛い。そこを超えてもだるさが残り、48時間経ってようやく快復した。あくまで僕の場合。

影響されやすい

もう村上春樹なんて読みたくない

 僕はどうも色々なものに影響されすぎる。だから映画を観ない、というほどだ。酒の飲み過ぎで二日酔いになるならまだ翌日が辛いだけだが、ちょっと心にくる映画でも見ようものなら一週間はその余韻を引きずって、仕事や生活に支障を来してしまう。

 とにかく僕は春が嫌いだ(ref. 春への苛立ち - 読んだ木)。僕に影響を与える一番のものは気候である。人間の身体のみならず心理についても、9割型は気候で決まるというのが僕の持論である。冬はピリッとしていて何事にも集中して前に進めていこうと気になるのに、春になるとどうも気が抜けてやる気が出ず、そのくせ腹が減ったり道ゆく美人に目を奪われたり、変な欲求が盛んになってくる。変質者の気持ちもわかる。春には変質者向け臨時変態収容施設などを作って、積極的にマスターベーションをさせて公衆での性犯罪を減らすべきではないか。変態も犯罪を犯す前に、春は変態化の季節と心得て自らを律するべきである。

 気候を除けば、僕に影響を与えるのは広義の人文学・芸術ということになろう。蓮實重彦ではないから映画は見なければいいのだからいいが、書物は読まなければ仕事にならない。

 最近、津田光造ついて調べている。日本で初めての全国的な農本主義団体として知られる日本村治派同盟を立ち上げた人物だが、元は二宮金次郎を研究していて、組合主義のアナーキストになり、その後ダダイストになったかと思ったら出家して坊さんになり、その後日本主義者になったという、どうもこう見ると節操のない人物だ。日本村治派同盟の運営もしっかりしておらず、団体は有名無実のまま消滅したといわれてきた。彼の書くものは、勢いはいいがどうも論の掘り下げや展開が弱く、凡庸である。しかしそれは彼自身の能力如何にのみ帰されるものとも言えず、彼は30歳前後で妻に先立たれ、後妻に迎えた女性の兄の辻潤に散々振り回され、出家して腰を据えて論述をしようと下中弥三郎平凡社から本を出したら下中の政治進出のための走狗としていいように使われてしまう、という、タイミングの悪さや付き合う人のまずさがあった。彼の変節も、むしろ彼の思想のみに生きられない現実に対する真面目さ、実直さということが背景にある。死んだ先妻との間には5人の子がいたというから、そういうことも関係しているのだろう。

 津田のことについて書いたものなどほとんどないので、近いところにいた辻潤に関係したものを読むことになるのだが、辻潤というのはダダイストと目されるだけあって、破天荒な人物である(『風狂のひと辻潤―尺八と宇宙の音とダダの海』)。大杉栄の自由恋愛事件というか、辻潤の妻であった伊藤野枝と、神近市子との間の三角関係で神近に刺された日影茶屋事件はよく知られているが、野枝を失った後の辻潤と比べれば大杉はむしろ恋愛において真面目、2本ではあるが筋を通しているとすら思えてくる。辻潤は女とくればすぐ口説く、口説かずとも犯そうとする、色々な人の家を転々として、家主を追い出して酒を飲み狼藉を働く、それなのに売れっ子作家だからどんどん女性が押しかけてくる、すぐ関係を持つ、破天荒そのものである。まだ田舎では妾を持つのが男のなんとか、みたいな時代だから、その貞操観やジェンダー構造など全く今日とは比べるべくもないのだが、その性関係の無秩序さ(自由さとは敢えて言わぬ)は読んでいて興味深い。自分の保守堅牢波風立たぬたたぬ古座川の一枚岩然とした性生活に比して考えるに、自分ももっと自由に振る舞ってもいいのではないかと思ってしまう。自分の岩的性生活で十分満足幸福であるのに、そういう余計なものを読まされることで、無駄に欲求が生まれてしまう。リベラルの人たちが、正しくあるために、さまざまな表現物を規制しようという気持ちもなるほどよくわかる。変質者になりたくなければ、あるいは変質者になりそうな人を止めようと思ったら、変質者になりそうな契機を徹底的に潰すのがよいという考え方だ。ダダイズムなんて危険千番、辻潤なんてすぐに牢屋か病院行きである。実際に辻潤は病院送りになったが。

 ところで最近、『ドライブ・マイ・カー』(Drive My Car)がアメリカで盛り上がっているという話が日本で盛り上がっている。

 

森博嗣だったら『ドリヴ・マイカ』とでも書くだろうが、これは村上春樹原作だ。盛り上がっているので、にわかに周りで観ようとする人が出てくる(上映されているのか?)。のみならず、原作の村上春樹の『女のいない男たち』を読もうとする人が出てくる。さらには、『女のいない男たち』を僕から借りようとする人が出てくる。村上春樹作品なら僕が持っているに違いないという先入観が広まっているのだ。やれやれ。あいにく僕は『1Q84』以降の村上春樹作品を購入していない。それはだから、大人になったことで、あまりああいう精子がじゃぶじゃぶ出てくる小説をダラダラ読んで、頭の中で自分の行動をいちいち文章化して気取ったBGMをつけて教養主義的な注釈で日々を彩ろうという気持ちが萎え、そういうものに精神的な影響を受けたくないという気持ちでいるからなのだ。しかし、辻潤の生涯を知った後なので、なんだか村上春樹も読んだらいいかもしれないという気分になり始めてきた。

 

 

 さらには偶然、こういう時には偶然が重なるものなのだが、早稲田大学に行く用事ができた。早稲田大学というのは浄土真宗にとっての本願寺、IT起業家にとってのサンフランシスコのようなもので、村上春樹文学のメッカである。僕が普段生活圏としているオフィス街では、皆スーツを着たりビジネスカジュアルな身なりをしたりという、落ち着いた無気色な雰囲気が漂っていて、僕もノマド・ワーカーが集うカフェで、黙々と辻潤のエロ話を読んでメモを取っている。これに対して、早稲田大学なんか行ったらもう、なんか革ジャンみたいなのを着た女子大生と、雑居ビルの1階に変な木や段ボールでできた看板を出している飯屋と本屋と、貧乏そうな男子大生と、都バスの車庫に都電の駅である。いいじゃないか。匂いがする。小便と精子の匂いがする。と言ったら言い過ぎだが、村上春樹がこう、ちょっと距離を置いたつもりになりつつどっぷり浸かっているこの雰囲気、バンカラな雰囲気が漂っている。僕は当然、影響されてしまう。ブログ記事に堂々と「精子」と書きたい気持ちになってくる。やれやれ。村上春樹でも読もう。

 それで、『1Q84』以降の代表作、『女のいない男たち』と『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を買ってしまった。これを早稲田の古書店で買ったと言ったらオチがつくのだが、あいにく買ったのは飯田橋ブックオフである。これから読むから内容は知らない。『ドライブ・マイ・カー』も観たことがないが、聞き齧った話を総合すると、疲れた中年男性が若い女性にセックスとか面倒なことはしないでしかし性的に癒される、という話らしい。それってポリコレなの?という疑問と、性欲が減らないまま中年になった男性の理想ってこれだよな、きも……という感想と、僕の中にも年若い女性にセックスしないで性的に癒されたい欲望めっちゃあるな、きも……という自己嫌悪とが入り混じって、やっぱり映画は絶対観ないぞ、という気持ちを新たにしている。

 

(追記:そしてこの日の夜、『女のいない男たち』を読み終わった。「性欲は若い頃とあまり変わらず盛んなのに若い女性から相手にされない中年男性」を文学的に言い換えたものが「女のいない男たち」ということらしい。たぶん。そういう中年男性は欲求不満になり、10代の甘酸っぱい恋愛を思い出したりいつまでも過去の別れた記憶を引きずる、という凡庸な話を繰り返し春樹タッチで——つまり何度もセックスする描写を用いながら——書いていて、色々辛かった。)

原発再稼働論について考える

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 先日の地震に起因する火力発電所の停止が、東日本の電力供給に多大な影響を及ぼしている。特に今日は、東電管内の需給逼迫で、政府から電力需給逼迫警報が発出されるなど、非常に混乱した状況になっている。一部停電の現実味が強まっていることから、人々が不安に駆り立てられている。

 その中で出ているのが、原発再稼働の主張だ。原発が動いていればこのような需給逼迫は起こらなかったという主張だ。ウランのサプライチェーンにおける被曝の問題、人々が事故で生活を奪われるリスク、放射性廃棄物の処分方法が決まっていないことなどは、その主張者らの眼中にはないようだ。

 震災後、原発依存ではない方向に政策は舵を切ったはずだった。原発再稼働なんかより手動でいいからデマンドレスポンス、いやなんなら需給調整契約の対象拡大だけでもやればよかったのだ。そのために、かねてからのスマートコミュニティ事業の続きで、デマンドレスポンスの技術実証などが行われた。しかし、DR実証はADR寄りでメーカーの独壇場になり、本来の目的であるこうした状況下での広範囲の需要調整は検討が進まなかった。また、安倍政権での原子力輸出政策のあおりで国内の再生可能エネルギー普及の機運は削がれ、定置型蓄電池付きのメガソーラーなど調整力のある再エネの取り組みは中国など海外メーカーが先駆けて取り組むことになった。元は原発のために作られた揚水発電が再エネの供給調整に使えることは分かっていたが、大手電力は再エネのためには意地でも調整力を作らないといわんばかりで、むしろ出力抑制という、せっかくある発電能力を封じ込める方向へと動いた。その間に、国内のパネルメーカーも蓄電池メーカーも倒れていった。VPP事業もZEH事業も政策の後押しが弱く、なかなか事業化されてこない。

 それで土壇場になって電気足りませんというのは……当然の結果であり、原発を安全に稼働する能力も準備もないまま再エネ導入を妨害し続けた大手電力や系統会社、それを覆せなかった政府の責任は小さくないだろう。実証に参加しながら梯子外された側としては忸怩たる思いである(以上はその立場からのポジトークでもあるが)。

 原発が再稼働しないのは、反原発云々ではなく地震・テロ対策の基準をクリアできないことがまずは問題なのであって、それをクリアした原発は、座り込みや裁判など抵抗運動を跳ね除け、すでに相当数稼働している。逆に、今回槍玉に挙げられてある太陽光なんか、所謂「ベースロード電源」の為に抑制させられている側である。原発地震にもテロにも耐えられ、その廃棄物の処理も燃料の輸入も問題ないというのなら、どんどんやってもらったらいい。しかし、そうなっていないのだから、原発は稼働できないのである。原発地震津波で壊れることは日本で世界初の不幸な実証が行われた。それを踏まえた安全基準をクリアしない原発でも稼働させよというなら、そう主張する方やその家族は是非原発立地地域に住んでみてほしい。あるいは福島県飯館村南相馬市の南の方へ行くのでもよい。畑や田んぼ、あるいは住宅地だった地面を埋め尽くす真っ黒なフレコンバッグ、それをまず見てほしい。それでも、安全基準を緩めてでも再稼働せよといえるのか。

 グリッドの適正化スマート化が進まないのは電ガ部と省新部というエネ庁内のパワーバランスもあるのだろうが、そのために解決されるべき問題が解決されず、レガシーのシステムを守りたい既存の大資本によって意見広告に始まるさまざまなマーケティングによっておかしな方向に世論が誘導されていくのは、見ていて辛いものがある。人の生活に即したより良い仕組みづくりに、ぜひ国や大手電力会社、その関連の研究に携わる方々には取り組んで欲しいものだ。この業界から離れてもう5年以上経つからあるいは見当違いのことを言っているかもしれない、素人の見解と思ってくれればいいが、あまりにひどい意見を多く目にするので、乱文ながら自分の考えを書き付けておく。(2022.3.22)

雑感(2022.3.1)

・ロシアの侵略は許されないが、欧米が世界的な安全保障に失敗していることは確かであろう。注目されるのは、長年マリを爆撃していたフランスが、この事態が進行する直前の2月17日に、マリから部隊を撤退させると発表していることだ。これは、アメリカの「テロとの戦い」と全く同一のロジックでマリに軍事介入していたものだ。アメリカのアフガニスタンイラク、フランスのマリでの戦争はいずれも失敗に終わったばかりでなく、歴史的に見れば大義なき一方的侵略と見做されうるものだ。他にもソマリア、シリアなど各地の紛争など、米国の軍事介入については枚挙にいとまがない。背景にあるアル=カーイダとの対立も、「テロ組織」などと言って「国」から線引きせず、やはり国連の場に導くべきものではないか。「テロ組織」という線引き自体の、帝国的論理がここにある。戦争がだめなら戦争はだめであり、戦争を回避するための努力を要するものなのだ。ドイツが軍事費を増やすなどと言っているのは完全な間違いだ。欧米諸国はロシアを非難しつつ、同時に強い自己批判、20世紀末の、つまり冷戦後の体制に対する自己批判を絶対にここでしなければいけない。これを機に21世紀の安全保障体制、もっと多くの人々を、「国」や「宗教」「人種」という枠組みよりも細かく降りていったところのさまざまな枠組みの人々を、対等な議論の場に招いて、よりよいあり方を考えていく体制に、移行しなければならない。「テロ組織」「反政府組織」「原理主義者」といった、「国」を上位に置く差別的呼称はやめ、「国」でないさまざまな団体の諸利害を、全球的に解決していこうという態度が必要だ。つまり「国」というものをより小さい枠組みで乗り越えることで、むしろより大きいネットワークに弁証法的に移行するということだ。色々書きたいことはあるが、しかしまずは現行の侵略戦争が止まってくれないと何も言えない。

 

・独裁者プーチンの暴走、という見取り図になってきている。晩年のやけくその打ち上げ花火、独裁者なら可能だということだ。こうなってくると中国は台湾どころではなくなって、むしろ北朝鮮の暴走をどう止めるかという話になってしまうだろう。日本としても、北朝鮮に核を持たせない、アジアの非核化とは言わんが核の管理を共同化していく枠組みを米韓と共に立ち上げるべきだ、などという名目で中国の動きを封じることができるようになる。日本を核武装せよという議論は、反米のロジックには使えるが、それ以外の国にとって、特に武力で現状変更を試みる国にとっては、彼らを利することにしかならない。岸田首相が非核三原則の厳守を、安倍元首相を通じて結果として表明する運びとなったのは非常によいことだ。

 

・かわいそうなのは、ウクライナ国民だけではない。ロシア国民も苦しみ、死んでいくだろう。死に軽重はない。VKで書かれていたものの一端を拾えば、たとえばEUとの貿易が制限されることで、医薬品が手に入らないという悲鳴。政策金利20%、ルーブルの価値半減の現状は、直ちにロシア国民の生活を崩壊させる。子どもや高齢者など弱い者から死んでいくだろう。国際社会は、ウクライナへの人道支援と共に、侵略をやめさせた上で、ロシアへの人道支援をする必要がある。その準備があることを、日本などは積極的に発信していくべきだろう。言論弾圧のもとで独裁者を支持する人々は、弱い立場にあるからこそ犯罪に加担してしまう、あるいはせざるを得なくなるのだ。言論弾圧を取り除き、人民に力を与えるための努力が必要だ。