読んだ木

研究の余録として、昔の本のこと、音楽のこと、3人の子育てのこと、鉄道のことなどについて書きます。

コスタ・リカのラ・カンデリージャ農園のコーヒー豆

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 どうも集中できない、頭が回らないので、今日は意を決して朝からカフェへ行き、コーヒーを注文した。意を決するほどのことではないが、意を決することでその行為に意味づけするのだ。そのカフェは、前に「コーヒーのサード・ウェーブなるものを知る - 読んだ木」で書いた職場近くのカフェである。

 コスタ・リカのシャンデリラというコーヒー豆のドリップを注文した。優しくてちょっと渋い味わい。シャンデリアじゃなくてシャンデリラなのか、どういう意味なのだろう……そこで前の記事に書いた、マスターとのやりとりを思い出したのだが、この豆の名前は農園の名前なのだった。それならばと検索してみたら、シャンデリラではなくキャンデリラだった。CHANDELILLERという綴りだと思っていたら、CANDELILLAだったのである。結構違うが日本語話者には同じに見える。

 

農園とコーヒーの味

 この豆を生産しているのは、ラ・キャンデリラ農園(La Candelilla Estate)。フェイスブックに、オリジナルのページがある(https://www.facebook.com/LaCandelillaEstate/)。

 サンチェス家が経営するこの農園は、コスタ・リカでは初めての、独立したコーヒー豆の加工設備を備えた小規模農園だという。キャンデリラ農園が成功したことを受けて、多くの独立小規模コーヒー農園ができて、コスタ・リカにスペシャリティ・コーヒーの市場が生まれた、とこのサイト「Costa Rica Candelilla Estate | Brioso Coffee」に書いてあった。

 世の中には、面白いブログがたくさんあるもので、実際にこの農園への訪問記を日本語で書いたブログがあることには驚かざるを得ない。まさにイッツァスモーワーって感じだ。僕がいろいろ書くよりこっちのブログ記事を読んだ方がよっぽど面白いので、ぜひこちらのサイトに飛んで欲しい。

www.goodspress.jp

 

 この記事を書いている間に、徐々にコーヒーが冷めてくる。この、浅煎りのコーヒーのドリップというのは、冷めてからの味わいがまたいい。このキャンデリラは、ちょっとこう、若木の香りっていうのかな、青々しい香りが奥に潜んでいて、それが魅力だと思う。それほどフルーティさや酸味は感じない。

 

農園名の読み方について

 シャンデリラではなくキャンデリラだった、と書いたが、コスタ・リカはスペインの植民地だった国で、本当はスペイン語読みになるはずである。そうすると、キャンデリラというのもちょっとおかしいかもしれない。「セビリアの理髪師セヴィリアの理髪師 - DVD)」というロッシーニが書いたオペラがあるが、このセビリアはもともと、Sevillaというスペインの都市のことをボーマルシェというフランスの作家がフランス語でSéville(セヴィーユ)と書いたのだった(ボーマルシェの『セビーリャの理髪師 (岩波文庫)』)。それを、イタリア人のロッシーニがオペラにするときにイタリア語でSiviglia(シヴィリア)と書いて、それが日本語で「セビリヤ」あるいは「セビリア」と発音されるようになったものだ(『ロッシーニ セビリャの理髪師 (オペラ対訳ライブラリー)』)。

 しかし、このSevillaという都市名、肝心のスペイン語では、「セヴィージャ」と読む。セヴィージャと書けば、ユーロサッカーに詳しい人はそのチームを思い浮かべられるだろうし、フラメンコ好きの人ならフラメンコのメッカとしてその都市の名を知っているだろう。ここで「ジャ」と発音されているのは"lla"という綴りである。これを「ジャ」あるいは「ィヤ」と読むのは、イェイスモあるいはジェイスモと呼ばれる、スペイン語のある種の方言のようなものだ。日本語で言えば、江戸弁でハ行の言葉がサ行になるようなものかもしれない。スペイン語圏でも地域によってイェイスモ発音するかどうかは分かれるのだが、ウィキペディアによれば、コスタ・リカを含む中米諸国は基本的にイェイスモ発音をするようだ。

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正しい農園名の日本語表記

 だとすれば、この農園名、candelillaはキャンデリラではなく、キャンデリーヤ、あるいはキャンデリージャと読むのではないか。もう少しいうと、"ca"を「キャ」と読むのも英語読みで、スペイン語なら普通に「カ」と読む気がするから、カンデリーヤ、カンデリージャ、が正しい発音のような気がする。そう思って検索しなおしてみると、カンデリージャ農園として書かれているブログページはたくさんあった。

cafe-pico.com

 というか、基本的に昔からこの農園は、コーヒー関係者とかコーヒー通にはカンデリージャとして知られているようである。その人たちの中には現地に行っている人もいるだろうから、その呼び方が正しいように思う。

 どうも、この農園をキャンデリヤと書くのは、スターバックスのサイトのせいのようだ。そう類推できる根拠は、コスタリカのラ・キャンデリラ、と書いているスターバックスのサイトがたくさんヒットするためである。これだからアメリカ大資本の無意識の暴力は怖い。アメリカで英語読みをするのは仕方ないが、アメリカの英語読みを日本語に輸出しないで欲しい。日本語は日本語で、アイヌ語から琉球語から始まり、いろいろな音をこの便利な音節文字である仮名文字で表現しているのだから。

 

* * *

 

 こんなブログを書いていたら丸1時間が過ぎてしまったではないか。早く仕事に取り掛かろう。その前に二杯目のコーヒーを注文するか。次はどの農園の豆にしようかな、とりあえずその名前で検索してみよう……こうして、いつまでも作業が進まないまま、コーヒー農園の知識だけが増えていく。

 

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クラシック音楽シリーズのまとめページ

 このブログで結構色々なクラシック音楽の作曲家と録音について書いてきたから、ちょっとまとめページを作っておこう。適宜更新。(3/26現在:8記事)

 

yondaki.hatenadiary.jp

 これが最初の記事。マルタ・アルゲリッチチック・コリアについて書いてる。

 

yondaki.hatenadiary.jp

 これが吹奏楽の話の一つ目で、吹奏楽でやったベルリオーズファウストの劫罰」、オルフ「カルミナ・ブラーナ」、やってないけどやりたかったディーリアス「ラ・カリンダ」の話。

 

yondaki.hatenadiary.jp

 短いけど、サイモン・ラトル指揮ベルリンフィル演奏のモーツァルトの話。前半に僕の音楽遍歴を書いてる。

 

yondaki.hatenadiary.jp

 ヴィルヘルム・ケンプ演奏、ベートーヴェンピアノコンチェルト第5番「皇帝」の録音について。

 

yondaki.hatenadiary.jp

 タイトルの通り、ラヴェルラフマニノフショスタコーヴィッチについて、作曲家の同時代性から時代背景を考えてみたもの。

 

yondaki.hatenadiary.jp

 ジュゼッペ・シノーポリの指揮するワーグナーの曲解釈が面白い、という話。

 

yondaki.hatenadiary.jp

 吹奏楽の話の第二弾。セドナとセレブレーション。

 

yondaki.hatenadiary.jp

 前のアメリカでのラフマやラヴェルの話に絡めて、ガーシュウィンと、「トムとジェリー」作曲家のスコット・ブラッドリーに言及。

 

yondaki.hatenadiary.jp

 メインはチック・コリアの「スペイン」の話だけど、最後のところでアランフェス協奏曲を取り上げているので。

既婚子持ちゆえにつまらない人間になる恐怖

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終わりのない長いトンネルのような子育て——それが終わるときにはすでに老いているのだろう

 

 

最近驚いたこと

 最近、新しい人に出会ったり、しばらく連絡を取っていなかった人に連絡を取ったりしている。コロナで1年間人とのつながりが絶たれたことにそろそろ耐え切れなくなっているということもあるし、前にも書いたような(今年度の個人的振り返り - 読んだ木)現状の深刻な行き詰まりを打破したいということもある。

 そうすると驚くのが、自分が全然情報に接していないということだ。日々散々長い時間をSNSに費やし、くだらないマスメディアの記事などを読まされたりもし、あるいは他人の発言も見てきているはずなのに、日々の狭いコミュニティの外にいる人と通じた瞬間、いままで全然知らなかった新しい情報がじゃばじゃばと流れてくる。

 2,3人と話しただけでそう思うのだから、もしもっと多くの人、あるいは社会のさまざまな人と交流したらどれほどの未知の情報がそこに横たわっていることか、簡単には想像も及ばないほどだ。日々の仕事や活動、趣味や奉仕、あるいは読んだり聴いたりしているもの、信じているもの疑っているもの、まさに十人十色で、1人として同じ人はいない。また、自分がこれほどに無知であることに、色々な人とやり取りするまですっかり忘れていたこともおそろしい。それはSNSのエコーチェンバー効果のなせるわざかもしれないが、とはいえSNSで繋がっている人は相当の人数に上る。それでも繋がっている人は社会全体を見渡せばごく一部だし、そこでわざわざ書かれることはもっと少なく、しかもある方向に沿うように意味づけられてしまっているということなのだろう。SNSは、一体なにをネットワーキングしているのやら。

既婚者のハンディキャップ

 コロナで直接人に会ったり、やり取りする機会を作れないことはその意味で本当に痛い。未婚の人はまだいい、出会い系アプリなどで知らない人に会ったり、やり取りすることもできるだろう。しかし、既婚でしかも小さい子供がいる人は、もう相当意識しないと社会に戻れないと思った方がいい。そういう人は出会い系も使えないから会う人が限られてしまい、その中の価値観が支配的になりすぎるし、さらにSNSをやっていればその支配的な価値観が世界全体に通用すると勘違いしてしまう。そのままコロナ前のように色々な人に会うと、この1,2年の間にいろいろな経験を積み、価値観を広げてきてる他の自由な人たちと、おそらく話が噛み合わなくなっているし、その人たちに相手にされなくなってしまう可能性がある。既婚とか子供がいるとかで大変なのは当然だが、女性ならばともかく、男性社会ではそんな言い訳は今のところ通用しない(僕は通用するようになって欲しいと思っているが、事実は事実だ)。

 出会い系アプリやオンラインでの紹介による新たな関係性づくりは、既婚者の人で不倫をしていない人にとってはやや信じ難いほど一般的になってきている。コロナによる影響が後押ししていることはいうまでもない。もはや一種の一般的なSNSであって、僕も最近そのことを知って、衝撃を受けたところだ。それで僕もおそまきながら、出会い系ではない新しいネットサービスを利用して、人間関係の拡張を試みようとしているところであって、このブログがその一環であることは今までも何度か書いてきた(インターネット年少世代 - 読んだ木)。正直、すでにmixi化しているらしい出会い系アプリを使いたいのだが、それを使っていないからこそブログが書けるということもあるし、それを使うとどんなに他の目的があっても男女の関係を求めてしまいそうなので、この困難なルートで人間関係を広げることをまだまだ試みてみようと思う。本当は趣味とかがあれば、趣味のサークルなどに参加できてよいのだろうが、書くことが趣味なので、ブログしか居場所がない気がする。

 とにかく既婚子持ちになると、仕事以外では家族としかコミュニケーションしてはいけないという規範があり、非常に困る。主婦ならママ友がいるが、子育てをする父親にそんなものはない。必死でパパ友の会などに参加していたが、コロナなどで活動がほぼ止まっているし、男性は日本の高齢者福祉と世帯維持のために長時間労働しなければいけないという社会なので、そもそもそれほど交流が進まない。地域活動などに参加する時間など取れないし、もし参加できたとしてもそこでまた年功序列を押し付けられると、小さい子を育てている若い父親ほど苦しむことになり、何もいいことがない。公的な交流などのサポートもみな母親向けで父親向けは皆無。とにかく父親は周囲と関わらず、単一の価値観を変えずに現状を盲目的に信じ、長く働いて金を稼いで納税と家族の経済を支えろ、という社会なのだ。そして、力尽きてそれから解放されたときには、すでに老いて何もできなくなっている。

 

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イクメンでは解決にならない

 イクメンなど笑止である。イクメンというのは、知的階級か金持ち階級のステータスの一種でしかなく、普通は家庭を顧みず働かないと子供を塾や大学に通わせることもできないし、そもそも稼ぎが少なかったり借金があったりすれば結婚も子作りもできないし、まず男性が育児に参加できるくらい短い労働時間でも十分に生活できるようにならなければ、若い父親をいくらいじめても何も改善しない。それに、こんなにシングルマザーが多いのに、イクメンを持ち上げるのも意味がわからない。「子育ては夫婦が揃ってなければいけない、しかも夫婦だけでやらなくてはならず、さらに夫婦で分業せずどちらも働きながら家事育児をやらなければいけない」、というなんとも不自由で、かつ恵まれた人しか実現できないイデオロギー。現実見えてない金持ちが言ってるんだろうなという気しかしない。やるべきことは、まず長時間労働の是正と男女の賃金格差の解消。これができるまで男性の育児参加とか口が裂けても言うな、と思う。これだけをまず言ってほしい。全然できてない。これができなければ、父親の育児参加など不可能だ。単純な時間の引き算なのだからわからないはずがない。長時間労働と男女の賃金格差が是正されたら、次は親だけで子供を育てるという家族主義を撤廃することだ。1人や2人の親だけで子供をちゃんと育てられるスーパーペアレントばかりではない。子供をもっと大勢の参加の中で育てる。

 そうして初めて、既婚者で子持ちでも、そうでない普通の人と同じように色々な知見を得て、視野を広げることができ、学んで成長することができる。もし子守だけしかしない場合でも同様だ。子守りをしている人々との情報交換や議論、知識の共有などの機会があれば、自ずから育児の質も上がるだろう。

 なぜわざわざよりよい労働者にお金を払うのではなく、性別で払う額を変えるのか。仕事ができないまま何年も成果を上げずに会社に居座る人の方が、成果をどんどん出して1年育休で不在にしただけの人よりも上の地位に上がるのか。なぜ子守りをしていたらもう誰にも会うことができないくらい時間的金銭的社会的余裕を失わなくてはならないのか。それは、少なくとも資本主義ではアンフェアだ。もちろん、労働生産性や会社の利益より、男女格差と男性を家長としてその世帯の他の成員を犠牲にするという価値観を温存したい主義の社会なら、僕はこんなことは言わない。しかし、この社会は資本主義で、民主主義を建前なりとも採用しているのだ。なら、まずはその社会でフェアな仕組みを採用すべきだし、それは万人の利益にかなうことだろう。

 僕と同じように、既婚者となり、子供ができたことで、視野の狭い、つまらない人間になっていく人は多いと、知人から聞いたことがある。そして、自らがそうなることを逃れるために、配偶者などを本人の意思に背いてそういう人間にさせた人は、なお多いかもしれない。個人の自由を尊重する観点からも、多くの人がいろいろな情報に接することで社会が多様性を受け入れるようになるためにも、現状を変化させる必要を切に感じる。

 

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求職者が頼るべきは適性診断か、タロットカードか

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仕事がない時には、しばしば何もない空を見上げていた

 仕事がないというのはなんとも不安だ。僕は仕事のない状態に慣れている方だが、それでも、2年ほどの無職期間を経て今の仕事に就いてから、急に体重が5キロ増えた(ヘルスアプリに昔の健康診断の結果と、最近の計測値を入れている。「リーズナブルで高機能な体重計(体組成計) - 読んだ木」参照)。ある種のストレスから解放されたということの結果だろう。そういう不安な心理状態の時は、科学的か非科学的かにかかわらず、色々なものに縋ろうとすることになる。向精神薬から占いまで、縋るものはさまざまだろう。近年、就活生や転職者、求職者向けの適性診断のようなものが、流行している。あれの一部も新手のスピリチュアル商法で、興味深い。

 

 

適性診断が科学的かどうか

 学歴や性別、答えが一意に定まっている筆記テストの結果など、客観的な情報を統計化して、職能に応じた仕事を割り当てるというものであれば、アメリカなどでも相当体系化されたシステムがあり、これは科学的といってよい。また、精神病の世界では、ある種の状態を統計的に定義し、その状態に至っているかどうかをアンケートによって判断する、という方法が長く取られている。これも、患者が継続的に有している精神状態を、あるボーダーを基準に判明にするものだから、科学的といえよう。心理学の世界では、過去24時間のうちに、とか、過去7日間でどう感じましたか、という質問手法が取られる。それは、思いつきのバイアスを排除しないと正しく測定できないからだ。これも同様に、科学的な妥当性を求めた結果である。これらのやり方に即して、大企業が個人情報を収集しまくってビッグデータ解析で因果関係に近い相関関係を導き出して行われる適性診断は、全く非科学的であるとも言えず、参考になる部分もあるかもしれない。

 しかし最近流行している適性診断の中には、昔小学校で流行ったような心理テストのようなものもある。アンケートに対し、パッと思いついた内容で回答してください、というものだ。この回答を、回答者の属性もろくに分析せずに統計化するのだが、もちろんその場合、その回答と回答者の属性には因果関係がないので、その統計は意味がない。回答者数が増えるに従って、その統計がもたらす回答者と職業の相関関係はどんどん変化してしまい、無意味な分散になるだろう。誰しも経験があると思うが、朝と昼と夜、あるいは昨日今日明日で、自分の感じ方や考え方は変わる。もし詳細な診断であれば、少しの回答の変化がその結果に大きく作用するはずだから、その適性は昨日今日で変わってしまうということになる。あるいは、大雑把な診断であればいつ回答してもあまり変化がないかもしれないが、そのような大雑把な診断でわかる適性などあるまい。その場の思いつきで考えずに答えてください、というのは、どんなにデザインに凝った適性診断であっても、単にオカルトの心理テストに過ぎないことを明示しておかなければ、それに騙される心に不安を抱えた求職者がかわいそうだ。しいたけ占いと何も変わらない。

オカルト適性診断よりスピリチュアルの方が……

 しかし、実際にそういう診断が有用であることがないわけではない。それはどういう時か。診断を通して、回答者が「自分はこういう質問をされたときに、こう答えるような人間である」あるいは「そういう人間になりたい」という意識を判明にする場合だ。それは診断がえらいのではなく、診断に答える回答者がえらいのである。診断を通して、自分を見つめ直す機会にしているのだ。しかし、そういう人には、年収や性別、居住地などの個人情報を抜き取られる適性診断よりも、もっとおすすめなものがある。

 それは、タロットカードなどの、スピリチュアルな技術だ。表向き科学的な装いをまとった心理テストレベルの適性診断に騙されて個人情報を垂れ流すくらいなら、最初からスピリチュアルな手法を用いた方がよい。スピリチュアルなものは、本当に御宣託が外部からやってくると信じ込んでしまうぐらいになってしまうとまずいのだが、個人の心中のモヤモヤを、適当なツールを使って外部化することで、自分の目指す場所やなりたい姿、それに至る方法を明確にするためには、非常に有用である。就職活動などで、色々と文字で書かされるが、あんなもので自分を表現できるのは一部の言葉を十二分に操れる人間たちだけだし、その人間たちとて、言葉の流れに引っ張られてあるべき像を書いているだけで、本当に自分の求めているものを言葉で表せているかは怪しいものだ。それに比べ、絶対に因果関係はないが、それを引くとなんだか自分が説明されているようになるタロットカードとか、何にも見えるはず聞こえるはずがないのに、透明な玉とかその辺に転がっている石から何かを読み取ることができる方法とか、そういったものの方が、自分の声に耳を傾けやすい。つまり、(少なくとも近代思想における自己の精神の非延長性を信じる立場からは)カードや玉や石を通じることで、自分の思っていることや言葉にならないことを、今の自分が思考上であるべきと定義しているあり方を離れて、聞き取ることができるのである。そのための手法としてのスピリチュアルな手段は、流石にその分野が相当に開発されてきていることもあって、よく発展していると思う。

 ただ、スピリチュアルなものにのめりこむあまり、科学的に妥当とされ、万人に承認されていることをあからさまに否定したり、自分以外の人やものがいっていることだけを鵜呑みにしたりし、それだけならまだしも、それによって自分の生活が不自由になったり、周囲に迷惑をかけるようなことがあってはいけない。ただ、適性診断と称して、なんでもいいから真面目に働いている人をたぶらかして、まるで今いる場所の外に、自分の行くべき運命的な職業があると思わせることでリクルーティングの仲介フィーを稼ごうという資本主義的悪巧みに騙されるぐらいなら、そんなもので自分を測るのではなく、すでに長年の蓄積があって、色々なノウハウもたまっているスピリチュアルな方法を用いる方がよい、という話だ。

科学を信じるからこそ、非科学をうまく使える

 僕は、ハーマイオニー・グレンジャーほど書かれたものを鵜呑みにして信じることができるわけではないのだが、基本的に科学的な知見を信じている。放射性物質がないところに急に放射線が飛び交うことがないことを知っているし、ワクチンは証明された統計の確率の範囲内において十分に安全であることを肯定している。しかし、世の中には、残念ながら、客観的に再現性を証明されたとはいえないもの、あるいは統計は示されているもののその現象の間に因果関係が認められないものが非常に多くあり、それが資本主義のなかで利益を上げるために、つまり人をその科学の力で騙すために喧伝されていることもしばしばあることも知っている。だから、宣伝されているものが信じるに足る科学的知見に基づいているかどうかを判断することは、慎重な検討を要する。前に買いた、空気清浄機を買うときにしばしば出てくる「マイナスイオン」なども、僕個人にとっては理解不能なものの一つである(加湿機能付き空気清浄機を選ぶ - 読んだ木)。そう考えてくると、案外、科学的として受け入れられるほど科学的なことは、多くない。しかし、生きていく上で科学的な知見だけでは頼りないことがしばしばで、科学的知見だけを頼って生きていけるほど強くもない。そこで、むしろ非科学的であることを理解した上でスピリチュアルなものに頼るのは、かなり有用な手段だと思っている。

 今の日本は宗教があまり分別されていない国で、それはこれと言って頼れる強い精神的(スピリチュアルな)な依存先がないことを意味しているが、逆にそれほど強い信仰がなくても、スピリチュアルなものを生活に活かしていくことのできる環境でもある。おみくじやタロット、占いに神父や坊さんの説教、なんでも頼ってよい。それに頼ることで、自分のあり方や自分の思いがクリアになれば、自分の苦しみも軽減され、自分のモチベーションも高まってくる。これは自己を中心とした近代のイデオロギーを僕が強く信じているからそのような解釈になるのかもしれないが、しかし誰にでも当てはまることだろう。むしろ、科学を信奉すると自認する人々こそ、科学の限界を知り、その外でうまく非科学的なものを使うような慣習があった方がよいと思う。さもなければ、科学の中に忍び込んだ非科学的なものに騙されて、洗脳されてしまうことに繋がりかねない。毒から遠ざかるのではなく、その使い方を知るのだ。そうすれば、毒薬変じて薬となる、というように、案外便利であることを知るだろう。

就活生や求職者、転職者の不安に付け入るようなサービスは不適切

 それにしても、ここで取り上げた一部の適性診断サービスのような、仕事のない不安、あるいは仕事の辛さや仕事を続けていくことができるかどうかの不安につけこんで個人情報を収集して儲ける似非統計科学には閉口する。それが本人の役に立つならいいが、結局本人をさらに不安にさせることでリクルーターが儲かるだけで、OJTもキャリア形成も進まないし、本当によくない。労働市場流動性は、そういう変な診断じゃなくて、それぞれの人が自分のいる学校や職場などでまずスキルを磨き、そのスキルがどこで使えるかを問うことで成立しなくてはならない。特に、まだ社会経験がなく、若くて個人情報保護の知識もない就活生の個人情報をさっさと抜き取っておいて、就職後にまた転職の勧めを何度も送りつけるなど、ちょっと目に余る。スキルも何もわからないのに、心理テストで就職先転職先がさっさと見つかるほど世の中甘くない。そういうものは消費者庁などが取り締まるべきなんじゃないだろうかとすら思う。

 ただし、こういう記事を書いておいてなんだが、スピリチュアルなものは自分の精神安定のためのゲームに使うにとどめ、ねずみ講マルチ商法新興宗教にハマるということは危険である。タロット占いなんて、ネットにたくさん記事があるし、amazonでカードも売ってるから、自分ですぐできる。他のスピリチュアルなテクニックも、まずは本を買えばいい。変な団体に入ることはおすすめしない。セミナーを受けたりする必要もない。不安に付け入ろうとする人は、それを大っぴらにやっている企業ほどひどくはないにしろ、スピリチュアル界隈にもたくさんいるので、気をつけたい。本当に精神に不調をきたしているなら、心療内科にいくのがよい。地域の医師会のサイトとかから心療内科を選んで、予約する。それができなければ、信頼できる友人か、親族に頼むことだ。

 とにかく、仕事がないときは不安になるものである。仕事があっても不安になるものである。もうこういうご時世で、そういう苦しみを抱いている人がたくさんいて、それに付け入るビジネスがあちこちで伸びているのを見ると心が痛む。本当に苦しんでいる人にお金や物資が流れるようにしてほしい。また、苦しんでいる人が、その苦しみの深さに応じて、適切なサービスや方法を取れるようになってほしい。どうしたらそうなるのか、僕にはわからないけれど……

 

▼この関連の記事

yondaki.hatenadiary.jp

 

牧野智和氏の「自己啓発」ブームの研究は参考になる

 追記(3/27):ちょうどこの記事を書いた翌日に、以下のような記事が出ていた。

president.jp

 牧野智和『自己啓発の時代』の要約のような記事だが、その先の展望までこなれない形ではあるものの描こうとしていてちょっと共感が持てる。

 

自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究

自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究

 

 個人的には、こちらの方が僕の関心には近いかも。就活も自己啓発化されているからね。企業側からすれば、自己が啓発されていようがいまいが能力があれば関係ないんだけど、採用担当者が学生より強い立場に立つためには、自己啓発が非常によく機能する、ということをこの本から読み取れると思う。

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

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  • 作者:牧野 智和
  • 発売日: 2015/04/09
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今年度の個人的振り返り

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見上げればまもなく満開を迎える桜

 そろそろ今年度が終わりますが、査読論文一本も通りませんでした。再査読とかじゃなくてまじの全滅です。しょーもない原稿をじゃかじゃか書いて(6本ぐらい)投稿して忙しい人々に読ませてしまったことを後悔しています。この場を借りてお詫び申し上げます。ひどい論文読まされて査読結果書かされる人の方が辛いからね。これは反省しているほんと。

 今年度応募した学会報告も全滅。理由は色々あるけど、総じてやっぱり僕の準備不足なんだよね。でも人文系の学会報告って国内外問わずだいたい通るんだけどね、やばいよね。

 このパラグラフ追記。あとで(この記事を書いた後の3月末)整理してみたら、この2ヶ月の間だけで論文4本と報告2本のリジェクト結果を受領していた。1年間どころか、2ヶ月で4本リジェクトて。この1年間やってきたこと全部無駄になってしまった。ちょっと自分が研究者として問題があると、客観的に理解しなきゃいけない。僕は論文を書けていない、その能力がちゃんと備わっていないということだ。何か身の振り方を考えなきゃいけない、真剣に。

 まぁ焦っても自分の能力不足は仕方ないので(有期職なので内心は死ぬほど焦ってるよ!)、もう少し苦悶を楽しんでいきます。何より辛いのは、この歳になっても人の役に立たないようなことをずっとやっていて、そのくせうまく行かなくてうじうじしているという、もうこの自分のメンタリティだよね。子どもを養う片棒を担げなくなりそうだったら速攻で研究の世界を去るので、僕ではなく僕の家族を心配される方も、どうぞご安心ください笑

 逆に査読ないもの書くのがほんと怖い。いやー院ゼミ離れた後ってどうやって自分の論文の投稿前のブラッシュアップやったらいいのかな。関係ない人に原稿とか送りつけるわけにもいかないし(何回かやったことあるけど)、しかも文字のやり取りだけだと全然だめで。結局研究会とかに入れてもらうしかないんだろうけど、土日は家を空けられないからなぁ。査読コメント貰うのは時間も場所も選ばないし、その点でとてもありがたいんだけど……なんかちょっと、20代に学んでおくべきこととか所属しとくべき環境にいなかったから、ひとりで研究の質を上げてく方法がわからなくて。優しいひと、誰か教えてください。

 でも、多分若手はみんな悩んでるし苦しんでるよって話にしかならないんだろうな。僕なんかまだいい方、とか、結婚して子供もいるいい身分なんだから文句言うな的なことを同僚から言われたこともあるので、ほんとすみません、って感じ。

 いやなんというか、ここ数日同じようなことを書いてきてるんだけど*1、他人を差別して貶めたくなるのも、自分を卑下して死にたくなるのも、根底にある原因は同じなんだと思う。弱いものが夕暮れ、さらに弱いものを叩く音が鳴り響いてる。どうしたらみんな強くなれるのだろう。あるいは、自分も他人も傷つけずに、弱いままでいられるのだろう。それを知るために研究しているのだけど、その難しさを思い知らされるばかりで辛いな。

 

リンダ リンダ(デジタル・リマスター・バージョン)

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批判はよくない、と言うけれど

 アメリカだったかな、最近のポリティカル・コレクトネスに関するインタビューで、ある人が「自分は男性で白人で中高年であると言うだけで文句を言われてかなわない」という趣旨のことを言っていたのを聞いた覚えがある。その気持ちはよくわかる。というのも、僕もジェンダー差別が激しいとされるこの国の権力側である男性だからだ。説明する相手の性別によって、同じことを説明してもマンスプレイニングだと言われ、存在がキモいとか目つきが変態とか批判され、中年に近づけば臭い汚いキモいと批判される。これらは、僕がいるだけで不快になる人々からの申し立てだ。なぜ男だからというだけでそんなことを言われなければいけないのか。

 近年とみに、著名人をはじめ、差別や他人を不快にさせるような発言をした人に対して、容赦ない批判が浴びせられるようになった。その批判の結果、その批判の対象となった人が仕事を辞めさせられるなど、社会的地位を逐われることも少なくない。

 それに対して、差別発言をしたり、そこまでいかなくても他人を不快にさせる発言を不用意にした人を、徹底的に批判することは、言論の自由を不当に弾圧することである、という意見や、それでもってその人をある地位から追い出すことは「キャンセル・カルチャー」である、という意見も多数出ている。たしかに、多様な弱者に寄り添い、あらゆる差別のあり方を知悉し、巧みな語学力でもって、誰にも批判されないような発言しかしない人、というのは、そういう人自体がそのような能力を身につけられたある種の権力者であるし、そういう能力を身につけることのできなかった多くの人は、そのような「正しい」権力に恐れをなすことは当然である。

 ただ、批判が言論の自由を奪うものだ、という指摘はおかしい。では、批判したいという気持ちを抑えなくてはならないのか。意識的であれ無意識的であれ差別したいと思ってそういう発言をする人は許されて、それを批判したい人は許されないような言論の自由など、ちょっと想像し難い。言論の自由というなら、両方許されなければならない。差別発言もいいし、それに対する批判もよい。それが言論の自由だ。では、その先はどうか。もし差別や不快にさせる発言が、その批判を受けるほどでない、批判が妥当でない、というなら、反論すればよい。存在がキモいとか、加齢臭を擁護するのは間違っている、という批判は、それは不当だろう。加齢臭を消すのにどれだけ金がかかることか。だれがその金を稼いでくれるのか。なぜ金がないだけでキモい汚い臭いと言われるのか。ふざけるな!と反論すれば良い。反論が妥当なら、批判に対する反論がまた膨れ上がって、その批判が撤回されるだろう。中年男性だからと避けたり無根拠に批判するのはおかしいよね、となるだろう。

 批判に対する反論が妥当でないならどうか。例えば鼻をほじって鼻くそを机に擦り付けるのがキモいとか、雨の日に革靴で歩いてきた足を机の上に乗せていて臭いとかいう批判であれば、これはいくら反論しても厳しい。鼻くそを気持ち悪がる価値観が悪いとか、足を上げないと血行が悪くなる、など反論の方法がないわけではないだろうが、誰も妥当だとは思うまい。そしたら批判を受け入れるしかない。批判を受け入れるなら、批判される原因を撤去しなくてはなるまいし、批判の通りに対応しなくてはならないだろう。ティッシュを用意し、足は靴にしまうかなにかで拭くべきだ。接客業なのにそんなことをしている人は、左遷されても文句は言えないだろう。

 差別発言、人を不快にさす発言をすることは自由だが、その発言に対する責任は自分で負わなくてはならない。正しいと思って差別発言をするなら、最後までそれを貫くことだ。女性差別発言は批判するくせに、天皇をボロクソに言う人はどうなんだ、という意見がある。そう思うなら、その天皇を貶す発言を批判すれば良い。その批判が正当なら、その人はその発言を撤回するし、その立場を逐われるだろう。もしその批判が正当でなく、天皇への暴言等が認められるものとされれば、その人は発言を撤回しないだろうし、その立場に留まるだろう。もとより、天皇を公然と批判するような人は、この国が憲法天皇を象徴に据えているうちは、それほどの地位には上がれまい。それに限らず、然るべき地位にある人は、誰かを差別したり、不快にさせる発言は慎んでいることを、我々は知っている。そして、そういうことをした場合は、原則的には強い批判を受け、立場を逐われ、より広い視座から、人を差別したり不快にさせるようなことをしない人が選ばれる。まさに、キャンセルのおかげで不快にさせられていた人が救われるのだ。それでまた新たに不快にさせられる人がでたら、その人が声を上げて、また人が変わる。完璧などないが、それを繰り返すことでしか誰かを不快にさせないようにするほうへと向かうことはできない。一足飛びに誰もが快適になるなんて無理だ。言論が自由であるおかげで、批判の応酬が起こり、最も妥当な見解とそれを有する人が然るべき地位につく。これこそ民主主義の数少ない美点だ。批判を封じ、誰かにとって不快な人がある地位を占め続ければ、その人のために不快な思いをし続ける人が生まれる。言論の自由は、そういったことを極力生じせしめないよう、担保されているというわけだ。

 ここに、不当な批判に反論したいが、それほどの言論の技術を持っておらず負けてしまう、とか、確かに批判は正当だが、そもそもこれがそんな批判を受けるようなことだとは知らなかった、そんなことは教えられなかった、という人もいるだろう。そういう人は、言論の自由を否定し、既存の差別を温存すべきだとか、文句を言わずに従え、と言ってよい。もちろん言ってよいのだ。そして、もし言論が一部の口達者な人の占有物になれば、言論の自由なんかいらないという人ばかりになり、口達者な人の意見など誰も聞かなくなるだろう。大学なんていらない、知識なんて金持ちが振り回す権力でしかない、ということになるだろう。そうなったら、言論の自由を求める人は、慌てて口を閉じ、それまで黙っていた周りの人に謝り、言論の自由を担保するために必要な技術を誰でも使えるように工夫するとか、あるいは言論以外の形で自由を実現する方法を必死で考えるだろう。言論が自由であるということは、それ自体を否定することも自由でなければならない。むしろ、言論の自由を求める人々こそ、言論の自由を否定する人々の声を(勝手に代弁するのではなく)聞こうとしなければいけないのだ。

 

ソクラテスの弁明 クリトン (岩波文庫)
 

 

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歴史研究者と差別意識

 正しい歴史解釈は存在しえない。しかし、誤った歴史解釈は存在する。誤った解釈を否定してより蓋然性のある解釈を提示していくことを繰り返すことが、歴史学の、ひいては学問の一般的なあり方だ。批判的に乗り越えられてきた過去の歴史学の主たる過誤の一つとして、歴史研究を行った時代の社会構造や差別を前提に過去を解釈したために、過去のある時点における社会構造や人間関係のあり方を、過去の時点に即した形で理解できず、誤った解釈を行なってしまう、ということがある。肌の色や生まれ、職業や身分、性別を理由に、特定のカテゴリーの人々を歴史学の対象から排除して理解することで、社会全体の動きが数人の権力者によって基礎付けられているかのように描かれる、あるいは多くの人々による仕事がある一人の人の能力として説明されるなど、様々な誤りが生じてきた。ある場合には、研究対象から欠落していたり、単に歴史の後景としてしか扱われなかったりした人々が、実は歴史展開を生み出す主要な集団であったことが明らかになるなどした。

 そのため歴史研究者は、自らの持つバイアスや差別意識による誤った歴史解釈を避けるために、一方では歴史をより広く、より多くの人々に即して明らかにしようとして、社会史や民衆史、農民史などを生み出していった。その意味で、女性史もその一つとして数えられよう。同時に歴史研究者は、自らのうちにある歴史解釈の眼を曇らせるような差別意識を、不断に自己批判することを試みてきた。今や女性史研究者であっても、「女性」を自明の単一の集団として扱うことはできない。人々の多様性を捨象して単に「女性」と名指すことは、その人々に対する差別、あるいは差別の隠蔽につながるからだ。

 歴史を書くこと自体、つまり当事者でないものが当事者を当事者の意図でないもので外部から表象すること自体、加害性が伴う。歴史叙述はその意味で、当事者が死んでいるから自由な叙述が特例的に許されているという側面もある。いわばそれは、合意を取らない献体のようなものだ。医学における献体は、その後を生きる人々のために倫理的に承認されている。歴史学における献体は、つまり過去の人物を自由に論じ、解釈することはどうか。やはり、我々がよりよく生きるためにそれを用いるという意図においてのみ、あるいは過去の人が合意した場合のみ、限定的に認められるべきものであるかもしれない。もちろん、現在の価値観、倫理観においては、過去の資料を自由に使ってよいことになっているし、自分もそれに甘んじた上で、そのような限定なく自由に研究に取り組んでいる。しかし、歴史を研究するということ自体の加害性、ある人を勝手に書き表してしまうことの侵略性については、できるだけ注意を怠らないようにしている。それは単に倫理的な問題ということではなく、研究対象として立ち現れる主体の意図や選択ということをよく踏まえなければ、その歴史をその時代の現実に即して叙述することなど不可能だからだ。

 歴史を振り返れば、人間は少なくとも言葉を獲得して以来、根拠の有無にかかわらず常に陰に陽に差別意識を持ち、それにより戦いや抑圧を引き起こしてきた。それは現在も同様であり、差別意識を持つこと自体を直ちに否定することは、困難であるかもしれない。しかし、いやしくも歴史学徒を任じる者であれば、歴史を見通した時に、差別によって苦しむ多くの人の姿を見出すであろうし、また過去に生きた人々の苦痛の所在とその源泉を証明することは、歴史的な一側面の解明として避けて通れない。歴史研究者が、上に書いたような、歴史的主体を恣意的に表象する加害性とそこから帰結する歴史解釈の誤謬を避けようと思っていれば、過去に生きた苦しむ人々への想像力を有しているはずである。そして、その想像力があれば、現実の今を生きる自らのうちに湧き出す、差別したいという意識を、それが現実化した時に生じる人の苦しみにまで思いを致すことで、自ら否定し、乗り越えることができるのではないか。その想像力なくして、様々な主体が自ら感じ、選択し、行動することで紡いできた「歴史」というものを、どうして描くことができよう。もちろん、恣意的なフィクションとして歴史を描く人については、この限りではないが。

 昔と違って、今や歴史は「繰り返さない」ことが哲学的定説となっているのではないだろうか。だとしても、歴史がまるで「繰り返されている」かのように現状を解釈することで、現実に苦しむ人を減らすことができるのであれば、歴史学にもなお一定の有用性が、それを歴史研究者が求めるか求めないかは別として、存在するといえる。僕自身、僕が生きているうちに何か自分の歴史研究が社会の役に立って欲しいとは微塵も思っていないが、その有用性をあえて否定しようとも思わない。少なくとも現実を生きる歴史研究者としては、その有用性を自ら反映した立場に立たなければ、その研究の創造を成り立たせている現実の自らの生の置かれた社会に対する責任を果たし得ないだろう。それには、先に述べた苦しむ人への想像力といったようなものも含まれる。さらに、歴史学に内在的な言語で、その責任を表明し、連帯を求めることも必要だ。

 歴史研究者は、歴史研究に携わるものであるからこそ、より差別に対し敏感であり、それを自己否定し、また周囲に対してもそれを乗り越えることを促すようでなければならない。僕自身、これまで様々な過ちを犯してきた。そしてこれからもそのおそれは常にある。しかし、常にこのことに注意を払っていれば、今後は、過ちを犯しそうになった時に、誰かが腕を抑えてくれるかもしれない。あるいは自分が、誰かの過ちを未然に防げるだろう。所詮人間であるから、完全ではいられない。搾取もしたいし支配もしたい、差別したいし傷つけたい。その気持ちが出てくるたびに自分で不断にそれを殴りつけ、黙らせ、あるいは人を傷つけない形で解消する。それを続けることでしか、人々は気持ちよく共存できないのだ、ということこそ、歴史が教えてくれることなのである。もちろん、ある種の芸術や研究においては、新たな可能性を開拓するために、それらを敢えて行う場合もある。その場合ですら、入念な配慮を持ってそれを行うことで、安全に新たな世界を切り開くよう試みるようになっている。多くの歴史研究者が、それぞれのうちに潜む差別意識を、どのように乗り越えていくかということを忌憚なく議論できるならば、今後の変化につながっていくだろうし、僕はそのための問題提起を、すでに昨日のある学会大会で行ったつもりだ。

 しかしそういった議論なく、差別意識を持った人を、それが表出するたびに外部の他者が被害者の代わりに裁く、殴りつけるといった形でことを済ませようとすれば、おそらく同じ問題は今後も続くだろう。とはいえ、そこから殴り合いに発展すれば、つまり逆恨みした加害者側の研究者が被害者側も引き摺り落としていくような展開になれば、研究は皮肉にもその周囲にいる人々によってより深化する結果になるかもしれない。というのも、何らかの対立が研究を進展させる例は枚挙にいとまがないからだ。特に、加害者側の周囲の強い立場にいる人々が、次は我が身と言いながら自己防衛のために論理武装していくことはままあることだろう。僕も男性だから、あるいはこの意見表明自体がそういった性質のものとして解釈されるかもしれない。だからこそ、僕はそのようなわかりやすい対立構造で、あるいは第三者による罪の規定によって問題が解決されたかのように扱うことには賛成しない。何より被害者の立場がなくなってしまう。罪と罰の問題は当事者間において、被害者の希望に即して、加害者のあたう限りで、また、基本的には法の定める範囲において、解決されるべきである。

 そして、個々の事例を離れた周囲の人々として論じるのであれば、簡単な対立や罰に還元するのではなく、なぜ差別してしまうのか、何をすると人は傷つくのか、ということを掘り下げていくところにこそ、問題の解決はあるのではないか。おそらくそこには、研究界に横たわる男性中心的な競争構造(特に近年強化されている)あるいは社会における価値体系もあるだろうし、そう考えてくれば、若手・中堅研究者が場合によっては差別に加担することと、場合によっては自死することとの間には、実は同じ問題が横たわっているかもしれない。

 

(この記事は以下の記事とあわせて書かれたもの)

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